「神聖な心の画家」展
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「セラフィーヌ・ルイ」の記事における「「神聖な心の画家」展」の解説
戦後はますます熱心に制作に打ちこみ、大判のキャンバスを使って果実、樹木、花(特にマーガレット)などを次々と描いた。1927年10月、芸術友の会の勧めにより、サンリス市庁舎で開催される展覧会に作品を出展することになった。『サクランボの木』、『黒い背景にライラックの花束』、『2本のブドウの木』の3点である。この頃、ウーデはすでにフランスに戻っていたが、パリでの活動に忙しく、サンリスに行く機会がなかった。展覧会開催中は偶然シャンティイにいたため、戦後初めてサンリスを訪れ、セラフィーヌの絵に再会した。ますます激しく、光と色彩にあふれた絵に再び打たれ、3点とも購入し、セラフィーヌに会う機会を得た。セラフィーヌは、「旦那様がお戻りになった」と言うだけで、再会を喜ぶ様子も見せなかったが、再びウーデが借りた部屋で制作に専念し、ウーデはパリで彼女の絵を紹介し、1928年には「神聖な心の画家」と題し、セラフィーヌ、ヴィヴァン、ボンボワ、ボーシャンらの素朴派の作品を集めた展覧会を開催した。セラフィーヌのパリでの評価は高まる一方であったが、サンリスでは相変わらず奇人扱いされ、地元の『クリエ・ド・ロワーズ』紙は、「セラフィーヌはサンリスのアンリ・ルソーだ」と称えながらも、「この優秀な女性は、箒を捨てて絵筆を執った。彼女は好奇心旺盛な独学者だ。絵の勉強をしたことがないし、また、すべきではないだろう」と皮肉を込めて書いている。実際、セラフィーヌは部屋にこもって讃美歌を歌ったり、独り言を言ったりしながら絵を描くだけで、「セラフィーヌ嬢は誰にも面会しません」と書いた札をドアに掛け、一歩も外に出ようとしなかった。ウーデには、「近所の女性たちに『教養のない家政婦が絵を描くなんて分不相応だ』と、毎日のように侮辱される」と話していた。また、ウーデから経済的援助を受けた彼女は、金メッキの皿、精巧な装飾が施された額、天使像、銀食器など役に立たない物を次々と買い求めるようになったが、1930年代に世界恐慌の時代に突入すると、ウーデにはもはやセラフィーヌの散財を支える力がなくなり、彼女の絵を買うことすらままならなくなった。
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