パリでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/09 04:46 UTC 版)
1894年4月、生涯の師と仰いだラニョーは43歳で死去した。ラニョーの死から4か月後の8月23日に結婚したルテリエは、夫婦そろってパリで若い学生を支援する活動に従事した。同年から翌年の間にルテリエは、倫理的行動同盟が発行した冊子に級友J・パコーのメモを元に42ページにおよぶ師ラニョーの伝記を書いた。ルテリエはその無骨さにも関わらずパリに住む名望家のほとんどと友好関係を結び、資金集めのため社交界(サロン)にも出入りした。世紀末のパリで、ルテリエ夫婦の支援で学業に進んだ生徒や、支援活動で知遇を得た人々のなかから弟子が生まれた。1905年には友人ポール・デジャルダンが出した著作に匿名で序文を書き、漁師時代の話を回想している。パリ在住時には活動で知り合った裕福な一族の若者、あるいはルテリエを「魂の最良の医師」と感じ彼に救済を求めた近親者に預けられた問題児など広範囲の人々に彼は影響を与えた。
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