パリでの苦学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:12 UTC 版)
3日間の汽車の旅を経て、1891年10月、マリはパリに移り住んだ。当時、女性でも科学教育を受講可能な数少ない機関の1つであったソルボンヌ大学(パリ大学) の登録用紙には名前を「マリア」からフランス語風に「マリ」と書き、物理、化学、数学を学ぶ日々が始まった。スラブ系の美しい顔立ちに明るいブロンド、グレーの瞳のマリは学内でも人目を引き、彼女自身も義兄を通じて若きイグナツィ・パデレフスキなどパリ在住ポーランド人らとも親交を持った。 しかし、将来はポーランドに戻ると決めていた自分には時間がないことに気づき、姉夫婦の元を離れて、パリによくあった7階建石造りアパートの屋根裏部屋を借りて 引っ越した。マリは昼に学び、夕方はチューターを務める一日を送った。生活費に事欠いて食事もろくに取らず、暖房もなかったため寒い時には持っている服を全て着て寝る日々を過ごしながら勉学に打ち込んだ。ついには倒れて医師である義兄の面倒になったこともあったが、努力を重ねた結果1893年7月には物理学の学士資格を得た。この年、貯蓄が底をつき一度は諦めたが、同郷の学友が彼女のために奨学金を申請し勉学を続けることができた。
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