パリとスイスのツーン湖時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 04:19 UTC 版)
「ハインリヒ・フォン・クライスト」の記事における「パリとスイスのツーン湖時代」の解説
1801年春、姉ウルリケと共にクライストはドレスデンを通ってパリへと向かった。しかし旅の意図とは逆に、パリに来たクライストにはそこがフランス啓蒙主義の示したのとは逆の非理性的現実を呈しているように思われた。幻滅を通して再び理性の確実さと歴史の意志に対する疑いが深まったのである。クライストはルソーに刺激を受け、農民の生活を志向するようになる。 1802年4月クライストはスイスに赴き、ツーン湖に浮かぶアーレ島に住み始めた。これは彼の希望に従って一緒に農民的生活を送ろうと望まなかった婚約者ヴィルヘルミーネとの破局を招いた。クライストは既にパリで悲劇『シュロッフェンシュタイン家』の元になる作品を『ゴノレス家』の題名で書き始めており、悲劇『ノルマンの公爵ロベール・ギスカール』もこのころ製作している。さらにその後、喜劇『こわれ甕』にも着手している。 1803年春、クライストはドイツに旅し、ドレスデンでフリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケとその友エルンスト・フォン・プフーエルと知り合った。プフーエルと共にクライストは再びパリに旅したが、そこで自らの才能に対する深い疑念にとらわれ、『ロベール・ギスカール』の原稿を焼き捨ててしまう。「天は僕にこの世で最も偉大な富、名声を拒みました」(1803年10月26日ウルリケ宛)クライストはこのときフランス軍に加わって「戦死するために」イギリス遠征に参加しようとする。しかし知人に説得されて再びドイツに戻り、1803年12月ベルリンで外交にたずさわるポストを求めている。
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