ロベルト・イル・グイスカルドとは? わかりやすく解説

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ロベルト・イル・グイスカルド

(ロベール・ギスカール から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/06 21:43 UTC 版)

ロベルト・イル・グイスカルド
Roberto il Guiscardo
プーリア・カラブリア公
在位 1059年 - 1085年

出生 1015年
ノルマンディー
死去 1085年7月17日
ケファロニア島
埋葬 ヴェノーザ、ホーリー・トリニティ修道院
配偶者 アルベラダ・ディ・ブオナルベルゴ
  シケルガイタ・ディ・サレルノ
子女 一覧参照
家名 オートヴィル家
父親 タンクレード・ド・オートヴィル
母親 フレデゼンド
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ロベルト・イル・グイスカルド・ダルタヴィッラ:Roberto il Guiscardo d'Altavilla, 1015年 - 1085年7月17日)は、ノルマン人傭兵で、後に中世シチリア王国オートヴィル朝)を建てたオートヴィル家の首領。兄ウンフレードの死後、プーリア・カラブリア伯(1057年 - 1059年)、後にプーリア・カラブリア公(1059年 - 1085年)。フランス語名でロベール・ギスカール(Robert Guiscard de Hauteville)とも呼ばれる。当時の共通語であるラテン語ではロベルトゥス・グイスカルドゥス(Robertus Guiscardus)。

イル・グイスカルドとは「狡猾な人」を意味する呼び名である。

生涯

南イタリア攻略

ノルマン人のタンクレード・ド・オートヴィルの六男として生まれる。オートヴィル一族は当初傭兵などをやっていたが、やがて南イタリアのアラブ領や東ローマ帝国領を攻略するようになり、ロベルトの兄達は1042年にイタリアのプーリア伯になった。ロベルトは、1047年にノルマンディーを出てイタリアロンバルディアに向かった。その時は5人の騎士と30人の従者を連れただけで[1]、しばらく山賊のようなことをやっていたが、やがて1057年、兄の後を継いでプーリア伯となり、弟のルッジェーロ達と共にカラブリアシチリア等の諸都市を征服していった。

ロベルトのバルカン遠征中のノルマン人による征服:カプア公国、プーリア・カラブリア公およびシチリア伯国がノルマン人国家。シチリア首長国、ナポリ公国およびアブルッツォ(スポレート公国南部)は征服されていなかった。

ローマ教皇ニコラウス2世は、神聖ローマ皇帝との争いに備えて、これらのノルマン騎士を手懐けるため、1059年にロベルトをプーリア、カラブリア、シチリアに正式に封じた。但し、いまだこの地方はサラセン人や東ローマ皇帝領が点在していた。その後、1068年にアフリカのジリア朝から送られた軍隊を打ち負かし[2]1076年までに弟と共にシチリアと南イタリアの多くを征服した。たとえば、当時アラブ人に支配されていたメッシーナを攻略中に、当時拠点にしていたメルフィ1061年1月に東ローマ帝国のコンスタンティウス10世の軍に囲まれた。ロベルトは全軍を戻して再奪取に当たり、カラブリアの平定に成功した。1072年にロベルトはシチリアをルッジェーロに譲り、自身はプーリアとカラブリアを支配した。

ローマ人との戦い

1081年に東ローマ帝国征服を目指し、東ローマ皇帝アレクシオス1世の軍を破り、コルフアルバニアを占領したが、叙任権問題のこじれにより神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世サンタンジェロ城を包囲されたローマ教皇グレゴリウス7世の救出に呼び戻された。ロベルトの接近によりハインリヒ4世は撤退したが、後を追い、1084年5月ローマに入城し略奪を行った。この間に、ギリシアを占領していた息子のボエモンが占領地を失ったため、再び東ローマ遠征を行ったが、1085年7月17日に熱病で亡くなった。

家系

ロベルトと弟ルッジェーロ

弟にシチリアルッジェーロ1世、甥に初代シチリア王ルッジェーロ2世がいる。結婚は2回で、息子は4人、娘は6人いる。初めはブルゴーニュ伯ルノー1世の娘アルベラダと結婚し、1男1女をもうけた。

アルベラダと離別後、サレルノ侯グアイマーリオ4世の娘シケルガイタ英語版と結婚し、3男5女をもうけた。

  • ルッジェーロ・ボルサ(1060/1年 - 1111年) - プーリア・カラブリア公
  • グイド(1061年頃 - 1108年) - アマルフィ公
  • ロベルト・スカリオ(1068年頃 - 1110年)
  • マファルダ - バルセロナ伯ラモン・バランゲー2世と結婚、子孫はアラゴン王に即位、ペドロ3世シチリア王にもなった。16世紀スペイン・神聖ローマ帝国・イタリアの大半を支配したカール5世も子孫である。ラモン・バランゲー2世の死後ナルボンヌ副伯エメリ1世と再婚、エメリ2世を産む。
  • マビリア - ギヨーム・ド・グランメニルと結婚
  • エリア - メーヌ伯ユーグ5世と結婚(のち離婚)
  • シビラ - ルシー伯エブル2世と結婚、娘マビーユはヤッファ伯ユーグ1世・デュ・ピュイゼと結婚[3]
  • オリンピア - ヘレナと改名し、東ローマ皇帝ミカエル7世の子コンスタンティノスと婚約するが、ニケフォロス3世により修道院へ入れられた。

脚注

  1. ^ アンナ・コムニニ『アレクシアス』悠書館、2019年、P.33頁。 
  2. ^ S・ランシマン『シチリアの晩祷』太陽出版、2002年、P.12頁。 
  3. ^ Runciman, genealogical trees

参考文献

  • 山辺規子 『ノルマン騎士の地中海興亡史』 白水社、1996年
  • von Heinemann, L. Geschichte der Normannen in Unteritalien (ライプツィヒ, 1894).
  • Chalandon, F. Histoire de la domination normande en Italie et en Sicile. (パリ, 1907).
  • Steven Runciman, A History of the Crusades Vol.II, Cambridge University Press, 1954.
  • John Julius Norwich. The Normans in the South 1016–1130. Longmans: ロンドン, 1967.
  • von Kleist, Heinrich Robert Guiskard, Herzog der Normänner, student edition (シュトゥットガルト, 2011).
  • Chaplin, Danny. "Strenuitas: The Life and Times of Robert Guiscard and Bohemond of Taranto. Norman Power from the Mezzogiorno to Antioch, 1016 - 1111 AD" (シンガポール, 2015).

関連項目

先代
ウンフレード
プーリア・カラブリア伯
1057年 - 1059年
次代
(陞爵)
先代
(陞爵)
プーリア・カラブリア公
1059年 - 1085年
次代
ルッジェーロ・ボルサ




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