終焉:1642年以降
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1642年9月2日、清教徒革命とこれに誘発されたイングランド内戦が勃発してまもないころ、ロンドン市内の統治権を掌握した議会内の清教徒は、すべての劇場に対して閉鎖命令を出した。これによって、ひそかに活動をつづける者は少数ながら残っていたが、事実上ロンドン市内での公的な上演活動は禁止された(詳細はイギリス・ルネサンス演劇を参照)。1646年3月24日に、まだ残存していた国王一座は過去(劇場閉鎖命令以来)3年半分の未払い金を支払うよう政府に要求しているが、この間どのような活動をしていたのかは明らかでない。1647年ごろには当局の許可を得ない違法の上演活動が一般的になっていたが、これに関しても詳細は不明の点が多い。1647年にはボーモント&フレッチャーの二折判著作集が刊行され、10人の俳優が国王一座の名義で献辞に署名している。ロバート・ベンフィールド、テオフィルス・バード、ヒュー・クラーク、スティーヴン・ハマートン、ジョン・ローウィン、トマス・ポラード、リチャード・ロビンソン、ジョーゼフ・テイラー、エリアード・スワンストン、ウィリアム・アレンがその10人であるが、このうち最初の7人(いずれも1642年以前からのメンバー)は、1648年1月28日付の契約書にも株主として署名しており、国王一座がこの時点で復活していたか、少なくとも復活する予定であったことが分かる。しかし同年7月には、支払いができなかったために国王一座の復興は失敗に終わっている。 1648年から1649年にかけての冬、国王一座のベテランよりは若い俳優を中心にして、再度劇団を建て直そうとの試みがなされた。この動きに参加した16人の中には、1642年以前から少年俳優として国王一座に参加していたウォルター・クランやチャールズ・ハートらがいる。この2人に新しいメンバー8人が加わって、出資者となる室内装飾業者ウォルター・コンウェイとのあいだで1648年12月27日に契約書が作成された。しかし1649年初頭にロンドン当局の徹底的な弾圧に遭い、ここに国王一座再建の夢は完全に絶たれた。 1660年の王政復古にともない劇場の活動は正式に再開したが、禁止令以前からの俳優や劇作家はほとんど残っておらず、イギリス・ルネサンス演劇の技術と伝統の大部分は失われた。女性の役も女性が演じるようになり、それまでの演劇の特色の一つであった少年俳優という職業は消えた(「最後の少年俳優」エドワード・キナストン (Edward Kynaston) と「最初の女優」マーガレット・ヒューズ (Margaret Hughes) の活動時期はいずれもこのころである)。また、かつて一般的であった公設屋外劇場もなくなって上流階級向けの高価な屋内劇場が取って代わることとなった。 国王一座 ("King's Company") という劇団が新たに設立されたが、王室がパトロンであるということ以外に(旧)国王一座とはなんら関係のないものである(チャールズ・ハートのように、旧国王一座から移籍した俳優も若干ながら残っていたが)。新しい国王一座をはじめとするこの時代の劇団が担った王政復古期の演劇は、まったく新しい基盤をもつものであった。エリザベス朝演劇やジェームズ朝演劇の作品は王政復古期にあっても主要なレパートリーであったが、多くの作品(とりわけ悲劇作品)はルイ14世時代のフランス演劇の影響を受けた新しい時代的風潮に適合したものだったのである。その代わり、多くの場面、大勢の登場人物、ごった煮の様式といったエリザベス朝時代の特色が王政復古期の喜劇の中に残存することとなった。
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