「纒向型」から前方後円墳の定型化へ
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「纒向型前方後円墳」の記事における「「纒向型」から前方後円墳の定型化へ」の解説
上述のように、「纒向型前方後円墳」については、前方後円墳の嚆矢としてみるのではなく弥生墳丘墓の終末段階として理解すべきであるという見解も多く、寺沢の見解は定説にはいたっていない。 寺沢が「纒向型前方後円墳」に「纒向型」を冠する理由について、寺沢自身は「ヤマト王権の王都纒向に造られた纒向型前方後円墳が最も古く、そして最も巨大だから」と述べ、纒向諸古墳と同一規格の縮小版とみなされる古墳が汎列島規模にみられることを指摘して、これら古墳は纒向の地を震源として列島各地に広がったものと主張している。すなわち、「最初の定型化古墳」あるいは「出現期古墳の最古」といわれる箸墓古墳の成立に先だって(「纒向型」の段階で)「纒向型」を基準とする規格性や階層性があったとし、纒向の諸古墳そのものが箸墓古墳(全長278メートル)のおよそ3分の1の規模であることを考慮すると、前方後円墳の定型化は、これら「纒向型」を基本として進行した可能性が高いと述べている。 同時に寺沢は、「纒向型」がヤマトなど近畿地方の弥生時代の首長墓から出現したものではないことを強調しており、むしろ弥生時代後期の近畿中央部においては「前方後円形はもとより円丘墓でさえきわめて例外的」として、その原型を既述のごとく楯築墳丘墓としている。その理由としては、 年代的にみて、楯築墳丘墓の築造が「纒向型前方後円墳」の築造の直前段階にあたること 規模の面でみて、「纒向型前方後円墳」の規模が楯築墳丘墓のそれをわずかに上まわっていること 形状の面からは、楯築墳丘墓の円丘部分の径と前後の突出部の長さの比も2:1であり、突出部を1つはずせば「纒向型前方後円墳」の墳形に酷似すること 祭祀の痕跡をみると、「纒向型前方後円墳」では、楯築墳丘墓でおこなわれたと考えられる首長霊継承儀礼を直接引き継いだことがみてとれること の4点を掲げている。 そして、「定型化」に際しては、古代中国の「天円地方の思想」を受容し、その影響を受けながらも、北部九州や吉備、播磨、讃岐など中部瀬戸内地域などの前段階の諸要素を、以下のように受け継ぎ総合していった結果であると論じている。 第1点として、首長霊継承の諸要素について、そのための施設として、巨大な墓壙や槨の造営、また、覆屋や立石を建造して「聖なる空間」を演出することなどの点では北部九州・イヅモ(出雲)・瀬戸内地方の要素が採り入れられている。円礫や礫堆を用いることに関しては山陰・山陽地方の、また、大量の朱は主として北九州の、さらに、特殊器台や特殊壺は円筒埴輪の原型としてキビ(吉備)の要素を受けついでいるとみられる。また、首長霊継承のための呪具に関しては、鏡などが破砕されて副葬されることに関しては北九州の、巫女形・家形の土製品、弧帯文様などの諸要素はキビ(吉備)の要素を継承しているとみられる。 第2点としては、新しい祭祀の舞台である墳丘に関しては、円丘と方丘の組み合わせ、葺石・貼石・積石など表面の装飾、墳丘そのものの巨大化など、大陸の影響を受けながらも、瀬戸内地域とくにキビ(吉備)地域の強い影響がみられる。 第3点として、鏡・玉・武器・腕飾類、あるいは鉄器の多量副葬など、威信財・副葬品に関しては、いずれも前代の北部九州の強い影響をみてとれる。 第4点として、立地面を考慮すると、丘陵頂に墳墓が営まれる点では瀬戸内地域の、周濠を営む点では前代の近畿地方の影響が強く認められる。 第5点として、葬送儀礼における供献土器の面では、しばしば穿孔をともなう二重口縁の壺、三種の小形精製土器、いずれも在地の近畿の要素の継承である。 寺沢は、定型的な前方後円墳への過程をこのように説明し、初期ヤマト王権の権力母体は、弥生時代の大和・畿内の勢力を基盤にしたものではなく、したがって、いわゆる「邪馬台国」でもなければ、奈良盆地・近畿中心部における部族的国家連合でもなく、「西日本各地の部族的国家連合による連合政権」ととらえている。邪馬台国論争において寺沢は、邪馬台国畿内説に立ちながらも、従来のような大和中心主義からではなく、むしろ鍵を握ったのは「キビ国連合とその息のかかった中・東部の瀬戸内地域」であったとして弥生時代終末期から古墳時代初期の研究に新視点を提供したのである。
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