「織田信勝」の登場とは? わかりやすく解説

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「織田信勝」の登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 02:49 UTC 版)

織田信行」の記事における「「織田信勝」の登場」の解説

織田信秀三男または四男として生まれており、織田信長はすぐ上の兄にあたる。母も同じ信秀正室継室土田御前で、信秀嫡出子2人けだった生年不詳であるが、天文5年1536年)であるともいう。童名伝わっていない。 父・信秀は、織田弾正忠家当主であり、守護代織田大和守家家臣ありながら戦国混乱のさなか、尾張国内に勢力急激に拡大した人物であった。しかし、晩年は度々美濃三河侵攻するもいずれも敗退し、その支配動揺していた。この危機にあたって天文18年1549年)、信秀は、那古野城主・織田信長政務関与させ、ここに末森城信秀那古野城信長共同領国支配を行うという二元体制築かれた。 天文20年1551年前半頃になると、信秀病床伏したが、替わって登場したのが信行であった織田弾正忠家領域支配を、信行信長共同で担うことになる。 同年9月20日信行は、備後守信秀三郎信長の「先判の旨」に拠りながらも、熱田神宮座主に対して自ら判物発給し、その権益保証した。これが信行勘十郎信勝)の史料上の初見である。 笠覆寺領参銭等之事、誰々雖申掠候、備後守三郎任先判之旨、不可有相違者也、仍状如件 天文廿 九月廿日 勘十郎信勝(花押熱田座主御坊 — 密蔵院文書 この文書において、信行使用した花押は、信秀花押類似している。信行は、病床信秀とともに末森城に在城しており、信秀後ろ盾として、尾張統治権ある程度まで掌握していた。 また、同じ頃、信長熱田加藤氏に対して権益保証を行う判物発給しているが、その際に「取次」を担当したのも、信行であった鳥居和之によれば、この時期信行判物信長判物は、いずれも信秀右筆により書かれている信行信長はいずれ信秀従属する立場にあった。そして、信秀存命中、信行信長どちらかが強い地位にあるというものではなく、その権限大きな差異はなかったと考えられる

※この「「織田信勝」の登場」の解説は、「織田信行」の解説の一部です。
「「織田信勝」の登場」を含む「織田信行」の記事については、「織田信行」の概要を参照ください。

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