「織田信勝」の登場
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織田信秀の三男または四男として生まれており、織田信長はすぐ上の兄にあたる。母も同じ信秀の正室(継室)土田御前で、信秀の嫡出子は2人だけだった。生年は不詳であるが、天文5年(1536年)であるともいう。童名は伝わっていない。 父・信秀は、織田弾正忠家の当主であり、守護代の織田大和守家の家臣でありながら、戦国の混乱のさなか、尾張国内に勢力を急激に拡大した人物であった。しかし、晩年は度々美濃・三河に侵攻するもいずれも敗退し、その支配は動揺していた。この危機にあたって、天文18年(1549年)、信秀は、那古野城主・織田信長を政務に関与させ、ここに末森城の信秀と那古野城の信長が共同で領国支配を行うという二元体制が築かれた。 天文20年(1551年)前半頃になると、信秀は病床に伏したが、替わって登場したのが信行であった。織田弾正忠家の領域支配を、信行は信長と共同で担うことになる。 同年9月20日、信行は、備後守信秀と三郎信長の「先判の旨」に拠りながらも、熱田神宮寺座主に対して自ら判物を発給し、その権益を保証した。これが信行(勘十郎信勝)の史料上の初見である。 笠覆寺領参銭等之事、誰々雖申掠候、備後守并三郎任先判之旨、不可有相違者也、仍状如件 天文廿 九月廿日 勘十郎信勝(花押) 熱田座主御坊 — 密蔵院文書 この文書において、信行の使用した花押は、信秀の花押と類似している。信行は、病床の信秀とともに末森城に在城しており、信秀を後ろ盾として、尾張の統治権をある程度まで掌握していた。 また、同じ頃、信長が熱田加藤氏に対して権益保証を行う判物を発給しているが、その際に「取次」を担当したのも、信行であった。 鳥居和之によれば、この時期の信行判物と信長判物は、いずれも信秀の右筆により書かれている。信行と信長はいずれも信秀に従属する立場にあった。そして、信秀の存命中、信行と信長はどちらかが強い地位にあるというものではなく、その権限に大きな差異はなかったと考えられる。
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