出土品について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 14:24 UTC 版)
駄ノ塚古墳に副葬された副葬品の多くは、追葬と近世に行われたと考えられる盗掘の結果、本来の副葬場所から散逸してしまっているが、発掘の結果3対の耳輪、碧玉製、メノウ製、鉛ガラス製の勾玉、水晶製とアルカリガラス製の切子玉、琥珀製の棗玉、ガラス製の丸玉といった装飾品類、銀象嵌の装飾がある大刀、刀子、鉄鏃、金銅と銀によって装飾された馬具、そして木棺に使用されたと考えられる鉄釘、須恵器、土師器などが検出された。 鉄釘の一部には木片が付着しており、木片の材質がスギであることから、スギ材が駄ノ塚古墳の埋葬に用いられた木棺に使用されたことがわかる。また木棺は最低でも前室と奥室に1基は安置されていたと考えられる。 検出された鉄鏃の形態は多様で、6世紀後半から7世紀前半のものと考えられる。銀象嵌の大刀は6世紀末頃のものと見られる。また金銅と銀によって装飾された馬具は、藤ノ木古墳や金鈴塚古墳に副葬された馬具との共通する部分が見られ、やはり6世紀後半のものと考えられ、駄ノ塚古墳の副葬品は6世紀後半から7世紀前半のものであることが判明した。 また須恵器は12点発掘されたが、全て横穴式石室前の内側周溝から破片として検出された。検出状況から須恵器は意図的に壊され、破片を内側周溝に撒いたものと考えられ、駄ノ塚古墳築造の契機となった首長の葬送時、祭祀に用いられた須恵器を破砕して散布した可能性が高いと見られている。須恵器の形態は押坂彦人大兄皇子が被葬者と見られ、7世紀初頭の築造とされる牧野古墳から出土した須恵器より少し新しく、610年代のものと考えられる。つまり駄ノ塚古墳の築造は610年から620年頃である可能性が高い。 駄ノ塚古墳から検出された出土品から、前方後円墳築造終了後に造営された大型方墳である駄ノ塚古墳は、6世紀前半でも早い時期に造営されたことがほぼ確実となり、6世紀末には前方後円墳の築造が終了して終末期古墳である方墳や円墳などの築造へと移行した畿内からあまり遅れることなく、関東地方でも前方後円墳後の大型方墳の築造が開始されたことが明らかとなった。
※この「出土品について」の解説は、「駄ノ塚古墳」の解説の一部です。
「出土品について」を含む「駄ノ塚古墳」の記事については、「駄ノ塚古墳」の概要を参照ください。
出土品について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 13:52 UTC 版)
1910年の発掘時、後円部の石室から人骨とともに大刀、金銅製馬具、鉄鏃、銀製耳輪、銀製空玉、金銅製空玉、水晶切子玉、ガラス玉などが出土し、前方部からは須恵器が出土したとされる。出土品の多くが飯野小学校に保管されてきたが、金銅製空玉は東京国立博物館で保管されている。飯野小学校で保管されている出土品の中には、他の内裏塚古墳群の古墳から出土したと考えられる遺物なども見られるが、多くは1910年の九条塚古墳の発掘時に検出された出土品と考えられている。出土品は6世紀前半頃のものや6世紀後半頃と見られるものもあるが、6世紀半ば頃と考えられるものが多く、九条塚古墳の築造と初葬は6世紀半ば頃と推定される。また前方部から出土したと伝えられる須恵器は6世紀後半頃のものと見られるが、これは前方部にも埋葬施設があって追葬が行われたか、初葬後一定の期間を経過した後に行われた祭祀によるものと考えられる。
※この「出土品について」の解説は、「九条塚古墳」の解説の一部です。
「出土品について」を含む「九条塚古墳」の記事については、「九条塚古墳」の概要を参照ください。
出土品について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 17:50 UTC 版)
1991年と1993年の調査によって、石野遺跡からは土器片約850点、石器類179点、動物遺体686点が採集、検出された。石野遺跡の特徴としては、遺跡を構成する石列や石組が地表に露出しているのと同じく、多くの遺物が地表に露出している点が挙げられる。地表から採集された以外の遺物は、1993年の発掘時に行なわれた、広場に設定されたトレンチからの遺物と解体調査が行われたB地区の2号積石からの遺物のみである。また土器の多くはB地区東斜面の線刻画が確認された巨岩付近から採取され、石器についてはA地区では中心の鏡岩や二列の石列周辺から、そしてB地区では石列や積石、線刻画が確認された巨岩付近から多く採集された。
※この「出土品について」の解説は、「石野遺跡」の解説の一部です。
「出土品について」を含む「石野遺跡」の記事については、「石野遺跡」の概要を参照ください。
- 出土品についてのページへのリンク