牧野古墳とは? わかりやすく解説

牧野古墳

名称: 牧野古墳
ふりがな ばくやこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 奈良県
市区町村 北城郡広陵町
管理団体
指定年月日 1957.06.19(昭和32.06.19)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文:
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  牛塚古墳  牛頸須恵器窯跡  牟佐大塚古墳  牧野古墳  牧野車塚古墳  牽牛子塚古墳  犢橋貝塚

牧野古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 21:09 UTC 版)

牧野古墳

石室開口部
所属 馬見古墳群(中央群)
所在地 奈良県北葛城郡広陵町馬見北8丁目(牧野史跡公園内)
位置 北緯34度33分15.45秒 東経135度43分26.60秒 / 北緯34.5542917度 東経135.7240556度 / 34.5542917; 135.7240556座標: 北緯34度33分15.45秒 東経135度43分26.60秒 / 北緯34.5542917度 東経135.7240556度 / 34.5542917; 135.7240556
形状 円墳
規模 直径48-60m
高さ13m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
(内部に刳抜式家形石棺1基・組合式家形石棺1基)
出土品 副葬品多数・須恵器
築造時期 6世紀
被葬者 (一説)押坂彦人大兄皇子
史跡 国の史跡「牧野古墳」
地図
牧野古墳
テンプレートを表示

牧野古墳(ばくやこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町馬見北にある古墳。形状は円墳馬見古墳群(うち中央群)を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。

押坂彦人大兄皇子(第30代敏達天皇皇子)の墓に比定する説が知られる。

概要

奈良県西部、馬見丘陵中央部の小尾根先端部に築造された山寄せの大型円墳である[1][2]1983年度(昭和58年度)に発掘調査が実施されている[2]

墳形は円形で、直径48-60メートル・高さ約13メートルを測る[2]。墳丘は3段築成であるが[2]、山寄せのため最上段(3段目)のみが完全な円形をなす[1]。墳丘外表では埴輪片が認められるが、原位置を保つものはなく、墳丘外表の化粧のため他古墳から取られたと推測される[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する[2]。石室全長17.1メートルを測る、奈良県下では最大級の大型石室である。石材には花崗岩の巨石が用いられ、石室の玄室内には刳抜式家形石棺1基・組合式家形石棺1基(非現存)を据える[2]。両石棺とも盗掘に遭って大きく破壊されているが、発掘調査では石棺の周囲や羨道部から多くの副葬品が検出されている。

築造時期は、古墳時代後期の6世紀末頃と推定される[1][2]。馬見古墳群では数少ない横穴式石室を有する古墳であるとともに[3]、墳丘の規模・石室の規模・副葬品の豊富さは当時として優れた内容を示す古墳になる。被葬者は明らかでないが、第30代敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子に比定する説が有力視される[1][4][2]

古墳域は1957年(昭和32年)に国の史跡に指定されている[5]。現在では牧野史跡公園として史跡整備され、石室は立ち入りが制限されているが、毎年一時期に公開されている。

遺跡歴

埋葬施設

石室俯瞰図
石室展開図

埋葬施設としては墳丘2段目に両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り。

  • 石室全長:17.1メートル
  • 玄室
    • 長さ:左側壁6.73メートル、右側壁6.7メートル
    • 幅:奥壁3.3メートル、玄門3.2メートル
    • 高さ:4.5メートル
    • 裾部:左裾長さ0.7メートル、右裾長さ0.74メートル
  • 羨道
    • 長さ:左側壁10.24メートル、右側壁10.7メートル
    • 幅:玄門1.8メートル、羨門1.77メートル
    • 高さ:玄門2メートル、羨門2.2メートル

石室の石材には花崗岩の巨石が使用される[1]。石室の側壁は持ち送って構築され、石材の隙間には粘土を詰める[2]。石室の床面は礫敷で、その下に排水溝を設ける[2]。排水溝は玄室の壁面付近を巡り、玄門付近で合流して羨道を通って石室外に出る[2]。また開口部には閉塞石が残存する[1]。石室構造は赤坂天王山古墳桜井市)と同じ設計になるとされ、同古墳は真の崇峻天皇陵とする説が有力であることから、皇族に関わる石工集団による築造とする説がある[6]

石室の玄室内には刳抜式家形石棺1基・組合式家形石棺1基の計2基を据える[2]。刳抜式石棺は奥に、組合式石棺は手前に位置する。それぞれの内容は次の通り。

  • 刳抜式家形石棺(奥)
    奥壁側において、石室主軸と直交する方向に据える。凝灰岩製。盗掘により大部分が破壊され、棺身は側面が持ち去られているほか、蓋石も1/3と縄掛突起が壊されている[2]
  • 組合式家形石棺(手前)
    奥棺の手前において、石室主軸と平行する方向に据える。盗掘により完全に破壊され、細片のみが確認されている。

これら2棺は同時埋葬と推測される[1]。2棺とも盗掘に遭っているが、発掘調査では石棺の周囲や羨道部から多くの副葬品が検出されている。

出土品

出土品
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。
壺鐙
広陵町文化財保存センター展示。

石室は盗掘に遭っているが、発掘調査では多くの遺物が検出されている[2]

  • 奥壁と刳抜式石棺の間
    • 馬具 - 杏葉、鏡板、辻金具、飾り金具、引手金具、障泥縁金具など。
    • 鉄鏃
    • 銀装大刀
    • ガラス小玉
    • 桃核
  • 右側壁と組合式石棺の間
    • 馬具 - 辻金具、飾り金具など。
    • 鉄鏃 多数(200本余り[1]
    • 須恵器 - 甕片、蓋坏。
    • 金銅製山梔玉
  • 玄門付近
    • 大量の朱 - 組合式石棺から出されたものか。
    • ガラス粟玉 多数(13,000個以上)
    • 折れ曲げられた鉄刀
    • 金環
  • 羨道
    • 須恵器 多数 - 原位置を保つ。
    • 木製容器
    • 木心金銅椀
    • 馬具 - 雲珠、杏葉、障泥金具、磯金具、壺鐙。盗掘の際に移動されている。
  • 石室前庭部
    • 鉄鉾
    • 馬具片
    • ガラス玉
    • 滑石製臼玉
    • 埴輪
    • 須恵器

遺物整理によれば馬具は2組あったとされる[2]

横穴式石室については黄泉の国神話の舞台とする説が知られるが、本古墳においても玄室の石棺付近(元々は石棺上か)で検出された桃が対応するものとして注目され、羨道の容器群は黄泉の国における死者の食べ物と推測する説がある[7]

被葬者

日本書紀』に基づく関係系図

広姫
 
 
 
30 敏達天皇
 
 
 
 
 
 
大俣王
 
 
 
押坂彦人大兄皇子
 
 
 
糠手姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟王 34 舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
35 皇極天皇
37 斉明天皇
36 孝徳天皇

牧野古墳の実際の被葬者は明らかでないが、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)に比定する説が有力視されている[1][4][2]。押坂彦人大兄皇子は第30代敏達天皇の第一皇子で、当時皇位の有力候補として物部守屋ら反蘇我氏に擁立されたが、途中で歴史から名を消した人物である(一説に蘇我馬子により暗殺)[8]

押坂彦人大兄皇子の墓について、『延喜式諸陵寮では遠墓の「成相墓(なりあいのはか/ならいのはか)」として記載され、大和国広瀬郡の所在で、兆域は東西15町・南北20町で守戸5烟を毎年あてるとする[9]。この15町×20町という記載は、仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(大仙陵古墳に治定)の8町四方を大きく上回るものになる。押坂彦人大兄皇子に関して宮内庁による治定墓はないが、広陵町赤部にある三吉陵墓参考地(新木山古墳)では押坂彦人大兄皇子が被葬候補者に想定されている。ただし現在では、新木山古墳は押坂彦人大兄皇子から遡る古墳時代中期の5世紀前半頃の築造とされる。一方で牧野古墳を押坂彦人大兄皇子の墓とする説では、確かな資料は欠くが、所在地の『延喜式』の記載との対応、築造時期、墳丘規模、石室規模が根拠とされる(ただし子の茅渟王の墓と推定される平野塚穴山古墳香芝市)とは時期差が開く)。

文化財

国の史跡

  • 牧野古墳 - 1957年(昭和32年)6月19日指定[5]

現地情報

所在地

交通アクセス

関連施設

周辺

伝文代山古墳出土石棺
  • 伝文代山古墳出土石棺 - 長持形石棺底石。牧野史跡公園内に保存。
  • 佐味田宝塚古墳

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 日本古墳大辞典 1989.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 牧野古墳パンフレット 2018.
  3. ^ 奈良県の地名 1981.
  4. ^ a b 奈良県の地名(刊行後版) 2006.
  5. ^ a b c 牧野古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  6. ^ 河上邦彦『飛鳥発掘物語』扶桑社、2004年、pp. 43-45。
  7. ^ 河上邦彦『飛鳥発掘物語』扶桑社、2004年、pp. 40-42。
  8. ^ 押坂彦人大兄皇子(国史大辞典).
  9. ^ 成相墓(国史大辞典).

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 奈良県立橿原考古学研究所 編『史跡牧野古墳』広陵町教育委員会〈広陵町文化財調査報告第1冊〉、1987年。 
  • 奈良県立橿原考古学研究所 編『史跡牧野古墳』(復刻版)広陵町教育委員会〈広陵町文化財調査報告第1冊〉、2005年。 

関連項目

外部リンク




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「牧野古墳」の関連用語

牧野古墳のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



牧野古墳のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの牧野古墳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS