植山古墳とは? わかりやすく解説

植山古墳

名称: 植山古墳
ふりがな うえやまこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 奈良県
市区町村 橿原市五条野町
管理団体
指定年月日 2002.03.19(平成14.03.19)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日 平成15.08.27
解説文: 植山古墳は,奈良盆地南端の甘橿丘から伸びる丘陵西端位置する東西40m,南北現存長約27mの大型方墳である。植山古墳の西約500mには,大型前方後円墳である史跡丸山古墳,また南東700mには史跡菖蒲池古墳位置するなど,周辺6世紀から7世紀の有力古墳集中する地域である。平成12年度の橿原市教育委員会による範囲・内確認調査により,古墳内容判明した
 古墳丘陵の南斜面掘削して窪地造り出し,そこに封土積み上げて築造し,北辺東西辺に周壕が巡る。周壕の底には,幅約1m,厚さ0.6mの石敷き施されている。主体部は,東西に並ぶ2基の大型横穴式石室で,いずれも南に開口する。両石室とも上面盗掘により破壊され天井石壁上部の積石取り去られている。東石室花崗岩3段上積み上げた両袖式の石室で,全長13m,玄室長約6.5m,玄室幅約3.2mである。玄室内に阿蘇溶結凝灰岩製の刳り抜き式家石棺置かれる西石室花崗岩用いた両袖式の石室である。全長13m,玄室長約5.2m,玄室幅約2.5mで,主軸墳丘主軸よりやや西に偏る玄門部の床には,扉を設置する軸穴を持つ閾石が置かれ石製の扉で開閉されていたと考えられる石室特徴墳丘石室との切り合い関係から,これらの石室には築造時期差があり,東石室6世紀末に築造され,その後西石室7世紀初頭追加されたと考えられる石室南側は,地山削り出し置き土による整地行い2段平坦なテラス面を造り出している。
 また,周壕の北には古墳区画するように掘立柱列(塀あるいは柵)が置かれ古墳南西部でも掘立柱2条東西建物1棟が検出された。これらのうち方位沿う建物列は,藤原京期のものと考えられる明らかに古墳意識して設置されており,本古墳囲み区画する施設可能性が高い。
 植山古墳は,墳丘築造法・形状,2基の主体部など,6世紀末から7世紀前半飛鳥地域古墳の特徴典型的に示し,かつ規模内容傑出した古墳一つである。『日本書紀』『古事記』などの記述との比較から推古天皇竹田皇子合葬陵墓とする考えもある。推古朝有力者の墓であることは確実であり,天武持統朝までその存在重要視されていたことも考えられる当時政治・社会考え上で重要であり,日本古代史考え上で欠くことのできない古墳である。よって史跡指定し保護図ろうとするものである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  森山遺跡  森野旧薬園  森鴎外旧宅  植山古墳  椚田遺跡  椿井大塚山古墳  楠名・重定古墳

植山古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/18 21:50 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
植山古墳
所在地 奈良県橿原市五条野町植山
位置 北緯34度28分34.4秒 東経135度48分12.6秒 / 北緯34.476222度 東経135.803500度 / 34.476222; 135.803500 (植山古墳)座標: 北緯34度28分34.4秒 東経135度48分12.6秒 / 北緯34.476222度 東経135.803500度 / 34.476222; 135.803500 (植山古墳)
形状 長方墳
規模 東西40m 南北27m
埋葬施設 横穴式石室二ヶ所 家型石棺 石棺破片
出土品 金銅装馬具破片 水晶製三輪玉
築造時期 6世紀末~7世紀前半
被葬者 推古天皇 竹田皇子(推定)
史跡 国の史跡(2002年指定)
テンプレートを表示

植山古墳(うえやまこふん)は、奈良県橿原市に所在する終末期の古墳(長方墳)。2000年(平成12年)に橿原市教育委員会により発掘調査されている。磯長谷古墳群中の山田高塚古墳(伝推古天皇陵)へ改葬される前の、推古天皇とその子息竹田皇子の合葬墓であった古墳ではないかと言われている。2002年に国の史跡に指定されている。令和元年現在、歴史公園として整備が行われている。

概要

出土品
歴史に憩う橿原市博物館展示。

植山古墳は東西40m、南北27mの長方墳(長方形の墳丘の古墳)である。丘陵の南斜面を利用し、墳丘部分を削りだすようにして築かれている。墳丘の東・西・北はコの字状に周濠が廻っている。墳丘には、東西に並ぶ2つの横穴式石室があることから、双室墳と呼ばれることもある。

2019年まで史跡整備工事を行っているため公開されていない。

2013年(平成25年)1月15日、横穴式石室側面の石が崩落した。原因は地中に雨雪がしみ込み盛り土が膨らんだためと推測された[1][2][3][4][5]

東石室

この内、東石室は両袖式で、石室長13m、玄室の長さ6.5m、幅3.0m~3.2m、天井石は失われているが残存高3.1m、羨道の長さ6.5m、幅1.9m、高さ2.2mの規模である。玄室には、阿蘇溶結凝灰岩(通称阿蘇ピンク石)でできた刳抜き式の家型石棺が置かれていた。排水溝からは、馬具の金銅製歩揺付飾金具、大刀の飾りにあたる水晶製三輪玉が見つかっている。東石室は同じ奈良県広陵町の牧野古墳の石室と似ていることから6世紀末ごろに築造されたと考えられる。

西石室

西石室も両袖式であるが、袖幅がほとんどないため無袖式に見間違えるほどである。石室長13m、玄室の長さ5.2m、幅2.5m、こちらも天井石がほとんど失われているが、高さ4.5m、羨道の長さ7.8m、幅2.3m、高さ2.0mの規模である。棺は失われているが、玄室から阿蘇溶結凝灰岩の破片が見つかっていることから石棺が安置されていた可能性が考えられる。石室中央には、玄室と羨道を仕切る扉の軸受けとなる、しきみ石が置かれている。西石室からは須恵器が出土しており、石室の特徴と須恵器から西石室は7世紀前半のなかでも古い段階に築かれたと考えられる。

被葬者

両石室の被葬者としては、日本書紀に推古天皇は628年に子息の竹田皇子の墓に合葬されたとあり、古事記には「大野岡の上にありしを、後に科長の大陵に遷す也」とある。河内の磯長谷にある伝推古天皇陵(山田高塚古墳)に改葬される前の、大野岡にあった2人の合葬墓であった可能性が考えられている。推古天皇は最初、自分の遺言で夭折した息子の墓に合葬されたものの、やはり帝にふさわしい規模の陵墓が必要ということで、科長(磯長谷)に新しい陵墓が造営され、2人の遺骸が移されたということらしい。これには蘇我氏が自分の勢力範囲にある南河内に歴代の天皇(敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇)の陵墓を造営することで己の権力を固めるといった政治的思惑も働いたのではないかとの指摘もある。

脚注

  1. ^ 最初の推古陵?で石崩落 奈良・植山古墳
  2. ^ 石室石材が崩落 - 雪や霜の影響か/植山古墳
  3. ^ 奈良・植山古墳で石室側面の石材が崩落
  4. ^ 最初の推古陵?で石崩落 奈良・植山古墳
  5. ^ ただし橿原市教育委員会による発表は2月12日

参考文献

  • 『ふたつの飛鳥の終末期古墳 河内飛鳥と大和飛鳥』 大阪府立近つ飛鳥博物館 2010年 26頁‐27頁 36頁

関連項目

外部リンク




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「植山古墳」の関連用語

植山古墳のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



植山古墳のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの植山古墳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS