阿蘇ピンク石の石棺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 07:52 UTC 版)
近畿における凝灰岩製家形石棺の研究は和田晴吾によってはじめられた。1976年には和田は一部の石棺に阿蘇石が用いられていることを指摘するが、ピンク色の凝灰岩は二上山産と考え、二上山ピンク凝灰岩と呼んだ。一方で1985年に高木恭二は宇土市のヤンボシ塚古墳に馬門石が用いられている事を発見した。この発見以前では馬門石の利用は近世からと考えられていた。1990年に高木恭二と渡辺一徳が岡山県築山古墳の石棺を分析し、従来は二上山ピンク凝灰岩と呼ばれていた石が馬門石(この発見により阿蘇ピンク石と呼ばれるようになる)であることを突き止める。その後、1994年に甲山古墳と丸山古墳、1999年に今城塚古墳、2000年に植山古墳で阿蘇ピンク石の石棺が確認された。現在確認されている阿蘇ピンク石製の石棺は13基である。 馬門石の石棺は、同じく石棺に用いられる二上山白石や竜山石にくらべ先行していたという説もあったが、共伴する出土物により3種の石材はほぼ同時期に用いられていたと考えられる。一方で3種の石材で作られた石棺は形態や変遷に独自性が見られることから別の系統であったとされ、やがて互いに影響を及ぼしあい統合していくと考えられる。馬門石の石棺は蓋の突起の大きさや形状から、九州地域に源流があると考えられる。高木は宇土市の鴨籠古墳の石棺が岡山の造山古墳の石棺(共に馬門石製)の祖型であるとし、この二つの棺を結びつけるのが火(肥)君と吉備氏であったとする。 一方で板楠和子は額田部氏が古墳時代を通じて大和川の河川交通を掌握していたとし、その上で宇土半島から瀬戸内を経由し難波津に至るまでのルート上に額田部が分布していることから阿蘇ピンク石石棺の輸送に関わっていた可能性を指摘した。さらに6世紀中頃に途絶える阿蘇ピンク石石棺が、6世紀末の植山古墳で復活する事について、額田部連と推古天皇の関係性によって、竹田皇子の為に特別に調達されたとしている。なお『正倉院丹裹文書』の記述から宇土郡は額田部君の所領であることが確認できる。 高木は植山古墳の墳丘や石室内から阿蘇ピンク石の石片が見つかる事や、初期の石棺の蓋と身の被せが九州で見られない印籠加工になっていることから、荒仕上を宇土で行って近畿に輸送されたのちに墳丘周辺あるいは石室内で仕上げたとしている。 九州外の馬門石製の石棺出土地所在地推定製作年石棺形状部位と色(蓋/身)その他造山古墳岡山県岡山市 5世紀第4四半期 舟形石棺 灰色 灰色 2基のうち前方部から出土したもの。ただし新庄上車塚出土とする説もある。蓋には直弧文とされる線刻がある。 長持山古墳大阪府藤井寺市 5世紀第4四半期 舟形石棺 灰色 ピンク 2基のうち2号棺。 峯ヶ塚古墳大阪府羽曳野市 舟形石棺 灰色 ピンク いずれも石棺片で、2基の石棺とする説もある。被葬者は仁賢天皇か? 別所鑵子塚古墳奈良県天理市 舟形石棺 不明 不明 2基のうち後円部の第一主体。戦前の調査でピンク色の石棺が確認されており、阿蘇ピンク石の可能性が高いとされる。 兜塚古墳奈良県桜井市 5世紀第4四半期 舟形石棺 ピンク ピンク 不明(慶雲寺石棺)奈良県桜井市 舟形石棺 現存せず ピンク 刳り抜き式石棺の身が石棺仏として利用される。 不明(みろく谷石棺)奈良県桜井市 5世紀第4四半期 舟形石棺 ピンク 現存せず 築山古墳岡山県瀬戸内市 5世紀第4四半期 舟形石棺 ピンク ピンク 野神古墳奈良県奈良市 5世紀第4四半期 舟形石棺 ピンク ピンク 丸山古墳滋賀県野洲市 6世紀第2四半期 家形石棺 ピンク ピンク 2基のうちの一つ。被葬者は近江毛野か? 甲山古墳滋賀県野洲市 6世紀第2四半期 家形石棺 ピンク ピンク 今城塚古墳大阪府高槻市 家形石棺 ピンク ピンク 石棺片で印籠加工と赤色顔料が確認できる。3基のうち一つ。被葬者は継体天皇か? 東乗鞍古墳奈良県天理市 6世紀第1四半期 家形石棺 ピンク ピンク 2基のうちのひとつ。被葬者は物部氏か穂積氏か? 植山古墳奈良県橿原市 6世紀第3から第4四半期 家形石棺 ピンク ピンク 東石室出土のもの。西石室に石棺は無いが、阿蘇ピンク石片が検出されている。 被葬者は竹田皇子か? 築山古墳の石棺 長持山古墳の石棺(右側が2号棺) みろく谷石棺 今城塚古墳の石棺片(推定) 東乗鞍古墳の石棺 兜塚古墳の石棺 円山古墳の石棺 甲山古墳の古墳
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