舟形石棺
主名称: | 舟形石棺 |
指定番号: | 454 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1989.06.12(平成1.06.12) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 考古資料 |
ト書: | 佐賀県佐賀市久保泉町熊本山古墳出土 |
員数: | 1合 |
時代区分: | 古墳 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 熊本山古墳は脊振【せぶり】山地の南麓、清兵衛山【せいべえやま】から派生する低独立丘上に位置していた古墳で、周辺には帯隈山神籠石【おぶくまやまこうごいし】、関行丸【せきぎようまる】古墳、花納丸【かのうまる】古墳などがある。 本遺品は、昭和三十八年にみかん園造成工事中に発見され、封土をはじめ、主体部の構築状況などは明らかでない。 石棺は阿蘇溶岩【あそようがん】製で、身と蓋からなり、それぞれ一石の刳り抜きで作られている。底部中央から前後端にかけてゆるやかに反る形態をとり、身の内は三室に分け、中央に主室、その前後に副室を設けている。主室の一端には径約二〇センチの枕を造り出している。 蓋の内面の構造は身と同じで合蓋【あわせぶた】となる。身・蓋の縄掛突起【なわかけとつき】の付くべき両端はそれぞれ半円状に突起を造り出し、一孔を設ける。 身・蓋の合口【あわせぐち】および内面は細かく整形がなされ、鑿【のみ】の規則的な調整痕も明瞭である。 内部全面は赤色顔料【せきしよくがんりよう】で塗彩【とさい】されており、顔料が厚く遺存している部分もある。 本遺品の形態、そして内部を三室に区切る方法は例がなく、三〇基以上が知られる舟形石棺の中でも、その学術的価値は極めて高い。 また、石棺内の副室に納置されていた鏡・玉・刀剣類・鉄短甲【てつたんこう】・鉄釶【てつやりがんな】・碧玉製紡錘車【へきぎよくせいぼうすいしや】等は副葬品として貴重であり、とくに獣形鏡【じゆうけいきよう】は徳島県節句山【せつくやま】古墳と同笵であることが判明している。舟形石棺との同時性を示す一括資料として、ともに保存を図りたい。 |
考古資料: | 肥後向野田古墳出土品 肥後国球磨郡免田才園古墳出土品 肥後阿蘇氏浜御所跡出土品 舟形石棺 蓋台付〓形土器 蓮華唐花文〓 蓮華文鬼瓦 |
舟形石棺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/27 22:30 UTC 版)
舟形石棺(ふながたせっかん)とは、古墳時代の棺の一種である。
概要
刳抜式の石棺の一種であり、身と蓋を合わせた断面は扁円形をしており、同様の方法で作られた割竹形石棺より安定性があり、両端が斜めに切られている形状が船に似ていることからこの名称が付いている。
割竹形石棺の変容形と目されており[1]、縄架け突起が付けられていたり、石枕が作り出されていたりする。
主に4世紀中葉~6世紀前葉に熊本・佐賀・宮崎・香川・島根・福井・群馬・茨城などの各地で在地の石材を用いて首長の棺として造られ、各地に普及した。[2]
主な舟形石棺
- 青塚古墳(香川県観音寺市に所在する古墳時代中期の帆立貝形古墳)阿蘇の溶結凝灰岩をしよう。また、洞石材を使った市内堂本町に所在する丸山古墳(円墳)でも確認されている。
- 臼塚古墳(大分県臼杵市大字稲田にある前方後円墳)、大小2基の舟形石棺が発見され、全長2.85mと2.25mである。
- 保渡田古墳群(群馬県群馬郡群馬町(現・高崎市)保渡田・井出に所在する古墳群)には二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳があり、それぞれに舟形石棺が使用されている。
脚注
参考文献
- 江坂輝彌・芹沢長介・坂詰秀一編『新日本考古学小辞典』ニュー・サイエンス社 2005年 ISBN 4-8216-0511-2 C0521
- 永原慶二監修 石上英一他編集『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999年 ISBN 978-4-00-080093-8
関連項目
舟形石棺と同じ種類の言葉
- 舟形石棺のページへのリンク