法恩寺山古墳群
名称: | 法恩寺山古墳群 |
ふりがな: | ほうおんじやまこふんぐん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 大分県 |
市区町村: | 日田市日高 |
管理団体: | 日田市(昭38・12・10) |
指定年月日: | 1959.05.13(昭和34.05.13) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 法恩寺山と称せられる山丘上に相接近して存する円墳群で、現在5基存する。この中、第3号墳は基底径約12メートル、高さ約4メートルの墳丘をなし、ほヾ西に面して横穴式石室が存する。石室は羨道及び玄室よりなり、玄室は前室と後室とにわかたれている。後室の奥壁及び側壁、羨道より前室に通ずる部分等に赤色による同心円文、馬像その他の文様が画かれている。第4号墳は、その東南約9メートル離れて存し、ほヾ同じ大きさの封土を有する。昭和32年発掘され西南に面して横穴式石室の存することが明かにされた。石室の床面は割石によって中央を横に仕切り、奥の区劃内に2体の遺骸があり、勾玉、管玉、切子玉等の玉類・鏡・鉄製刀身・鹿角装刀子・須惠器等が発見され、前方の区劃内には遺骸一体があり、須惠器のほか馬具類が検出された。石室入口は一枚石でとざされている。 第3号墳は装飾ある古墳として九州におけるこの種の古墳の分布上注意すべく、第4号墳もまた、石室の内部構造等に見るべきものがあり、いずれも学術上の価値が高い。 |
法恩寺山古墳群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/07 23:11 UTC 版)
法恩寺山古墳群(ほうおんじやまこふんぐん)は、大分県日田市大字刄連町字法恩寺にある古墳群。1959年(昭和34年)5月13日に国の史跡に指定された。
概要
日田盆地東部の丘陵にあり、南側には三隈川が流れる。古墳群は7基の円墳からなり、4号墳以外では開墾や盗掘による破損がみられる。『豊後国風土記』の日田郡の条には、欽明天皇の頃、靱部として天皇に仕えていた日下部氏の祖先邑阿自が靭負いの村(後の刄連郷)に居を構えたとの記載があり、古代日田地方の豪族日下部氏一族の墓と推定されている。
法恩寺山3号墳
3号墳は、墳丘が相当程度失われているが、径約20メートル、高さ4メートルの墳丘を持つ円墳であったと推定される。石室は、複室構造の横穴式石室で、全長はメートル。後室は、奥行2.4メートル、幅2.3メートル、高さ2.3メートル、前室は、奥行1.9メートル、幅2.5メートル、高さ1.9メートル。壁面は、平積みされた扁平な割石が天井に向かって徐々に迫り出しており、このような構造は大分県下では類を見ない。装飾は、彩色のある壁画で、後室には、奥壁に円文が1個、右壁に円文、同心円文が9個描かれている。前室には、左右の袖石のうち左側に馬と人物、右側に騎馬人物が描かれ、袖石の間に架かる石には同心円文や鳥が描かれている。また、羨道から前室に通じる袖石の左側内面には四足獣と円文が描かれている。後室の幾何学文様に対して、前室の人馬の図柄が対照的である。副葬品は、コハク製棗玉、轡、雲珠、須恵器などが出土しており、6世紀後半の築造と推定されている。
法恩寺山4号墳
4号墳は、径約13メートル、高さ約3.5メートルの墳丘を持つ円墳である。石室は横穴式石室で、玄室は奥行2.6メートル、幅2メートルで羨道側で徐々に狭まり1.5メートルとなる。壁面は、3号墳同様に割石の平積みで天井に向かって徐々に迫り出す。石室内には、成人2体、子供1体の計3体の人骨が安置されていた。副葬品は、変形五獣鏡、直刀、鉄鏃、轡、鈴雲珠、勾玉、管玉、須恵器などが出土しており、6世紀前半の築造と推定されている。出土品のうち鈴雲珠は、径13センチメートルの半球形の雲珠の上に径5センチメートルの球形の鈴を載置したもので、全国的にも希少である。
関連項目
外部リンク
座標: 北緯33度18分36.6秒 東経130度57分0.8秒 / 北緯33.310167度 東経130.950222度
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