遺跡の概説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 06:11 UTC 版)
「桜木遺跡 (世田谷区)」の記事における「遺跡の概説」の解説
世田谷区で旧石器時代(先土器時代)の遺跡の存在が初めて確認されたのは、1952年(昭和27年)のことである。この年は日本の旧石器時代遺跡発見の嚆矢となった岩宿遺跡(群馬県みどり市)の発掘調査から数えると3年目にあたり、東京都内で初の旧石器時代遺跡と判明した茂呂遺跡(板橋区)調査の翌年でもあった。 この年の9月、直良信夫、江坂輝弥、佐藤敏也などが世田谷区代田にある通称を「根津山」という地域の住宅地区整理工事に立ち会った。彼らは立川ローム層の中から礫器や剥片石器とともに、焼けた礫が集中している部分を発見した。この地点はのちに「根津山遺跡」(世田谷区遺跡番号70)として登録された。このように、世田谷区においては比較的早い時期に旧石器時代遺跡の存在が知られていたが、本格的な調査は長きにわたって未実施のままであった。 桜木遺跡についても、本格的な調査が行われたのは2005年(平成17年)になってからであった。1984年(昭和59年)3月に三田義春(世田谷区郷土資料館資料編集員)が執筆した『世田谷・桜・弦巻の歴史』という小冊子では「縄文中後期」の遺跡とされ、出土品として「土器片・石鏃・石斧・貝斧」が記述されるのみのごく簡略な記述であった。 2005年(平成17年)に始まった本格的な調査で、桜木遺跡は旧石器時代から近現代に至る複合遺跡であることが判明した。とりわけ注目を集めたのは、縄文時代の住居跡の発見で、その数は350軒以上にのぼっていた。これらの住居跡は時代的には縄文中期のもので、「環状集落」と呼ばれる広場を中心としてドーナツ状に広がる当時の「ムラ」の様子や人々の生活について知ることのできる遺跡である。 桜木遺跡は、世田谷区内では大規模な遺跡の1つである。東京都下でも、縄文時代の集落遺跡としては最大級の規模と内容を有するものである。国分寺崖線沿いに存在する遺跡では縄文時代の大規模な集落遺跡が発見されていたが、桜木遺跡のように、内陸部にあたる目黒川・烏山川水系沿いにある縄文時代の大規模な集落遺跡は貴重なもので、学術的にも重要なものとされる。目黒川・烏山川水系に分布する縄文時代中期の集落遺跡群において中核的な存在である「拠点集落」との推定がなされている。この遺跡から出土した縄文時代の遺物は、2009年(平成21年)に「桜木遺跡出土の縄文時代遺物一括」として世田谷区の指定有形文化財(考古資料)に指定された。 なお、東京都区部や都区部西側に隣接する地域である武蔵野台地東部では早くから都市化が進展しており、例えば多摩地域のように大規模な開発に伴って縄文時代の集落の全貌が明らかとなることは少なかった。このため武蔵野台地東部では、縄文時代の集落研究があまり進んでいなかった。桜木遺跡もやはり古くから宅地化が進んでいたため、本格的な遺跡調査が困難な地域であったが、近年、まとまった規模の再開発が行われた際に実施された発掘調査の結果、その存在が明らかとなった。 遺跡については、区議会の質疑において住居跡などを復元しての保存を希望する意見が出た。しかし、桜木遺跡の中心部にあたる土地を所有している警視庁との関係もあって、住居跡などの遺跡については「記録のみ」の保存、遺物や出土品については現物を保存することになった。
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