岩宿遺跡
名称: | 岩宿遺跡 |
ふりがな: | いわじゅくいせき |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 群馬県 |
市区町村: | みどり市笠懸町 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1979.08.17(昭和54.08.17) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S54-6-030岩宿遺跡.txt: 本遺跡は、赤城山の東南方、渡良瀬川右岸地域の小独立丘陵上にあって、丘陵の北部は稲荷山、南部は山寺山及び金比羅山と呼ばれる。稲荷山と山寺山を分ける低い鞍部には町道が通るが、相沢忠洋が始めて石器を発見したのは、昭和21年頃、この道路の切通しにおいてであるといわれており、昭和24年の明治大学の調査では、切通しの北側はA区、南側はB区と命名され、A区において上下2層の石器文化層が確認されたのである。下層の岩宿I文化と呼ばれる石器群は、地表下約1.5メートルの中部ローム最上部の暗色帯中に含まれており、楕円形の石斧2点の他、掻器類・刃器状剥片・石核があって、石材には主に[[頁岩]けつがん]が用いられている。同層からは多数の自然礫やクリ材の炭化物もみられた。この暗色帯の最上部にはAT火山灰がみとめられ、岩宿I文化の年代は2万年前以前に溯ると考えられる。岩宿II文化は、上部ローム層中に含まれる切出状のナイフ形石器を指標とする文化で、瑪瑙・頁岩・黒耀石・安山岩など多様な石材が用いられている。 なお、丘陵の一部には、繩文土器の包含された地点や岩宿I文化よりも古い石器文化を探索するために調査された地点なども含まれている。 本遺跡は、確実な人工品として学界で広く承認された石器の中でもきわめて古い部類に属する石器群を出土し、日本文化の起源が旧石器時代にまで溯ることをはじめて立証した遺跡として著名であるので、指定し保存をはかるものである。 |
岩宿遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/03 21:15 UTC 版)
岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は、群馬県みどり市[1]にある旧石器時代の遺跡。国の史跡に指定されている。
注釈
- ^ 北関東に見られる赤土というのは、更新世に周辺の火山の噴火によって降り積もった火山灰層をいい、「関東ローム層」の別称である
- ^ 1949年9月11 - 13日の試掘の最終日の午後雨の中崖面を掘っていた杉原のスコップが石に当たり、カチンと音がし、両面加工の楕円形握り槌(ハンドアックス)を発掘した。
- ^ 1949年7月27日、芹沢長介、縄文時代の研究者宅で偶然相沢忠洋に会い、岩宿の稲荷山の切り通しの赤土(ローム層)の中から石器が出るという話を聞いた。1949年9月7日、明治大学の杉原荘介の研究室で相沢の資料を見せた。1949年9月11日 - 13日、杉原は早速試掘を行い、最終日の作業終了直前に両面加工の楕円形握り槌(ハンドアックス)を掘り当てた。1949年10月2日 - 9日、本格的発掘調査が開始された。この発掘調査により上層の黄褐色ローム(岩宿Ⅱ文化)と下層の黒褐色層(岩宿Ⅰ文化)の2枚の文化層があることが判明した。さらに、ローム層の上層(表土層)の下の方から稲荷台式土器(当時、縄文時代最古の土器)が発見されて、岩宿Ⅰ・Ⅱ文化の石器群は、1万年以上前の更新世(旧石器時代)の人々の遺跡であると判断された。しかし、岩宿遺跡=旧石器時代の発見は、容易に認められなかった。地質調査を依頼された二人の研究者の意見が一致しなかった。岩宿遺跡発掘調査と並行して東大人類学教室が栃木県足利郡(現桐生市)普門寺遺跡を発掘して岩宿ローム層は沖積世に属すると結論したが、後に間違いが判明し、岩宿に対する批判の根拠を失った。また、1949年11月に京都で開催された日本考古学協会第4回総会で岩宿遺跡の発掘調査が報告されたが、誰も問題にしなかった。その後、杉原・芹沢は、つぎつぎと旧石器時代の遺跡を発見し、1965年にそれらを集大成したときには北海道から九州地方までの旧石器時代の遺跡の数は359ヵ所に上った。
出典
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