業績・学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 00:00 UTC 版)
1930年に森本六爾に会って以来私淑し、森本の創立した東京考古学会を助け、森本の死の直前にその病床を見舞った一人である。 1947年の静岡県登呂遺跡発掘調査に中心的役割をはたす。1949年に行われた群馬県新田郡笠懸村の岩宿遺跡発掘調査の中心となる(発見者の相沢忠洋の功績は記載せず黙殺した)。1964年の日本考古学協会による加曽利貝塚の調査では瀧口宏とともに調査団を主宰する。 「歌人」と自称するロマンティストであるとともに、現場での指導は厳正であり、自分の見解では一歩も引かぬ自信を示した。論文中で土器の式名を定める時に「これからはこの種の土器を○○式と呼称する」と必ず明記したことは、彼の識見を知るに足る。杉原の設定した、真間式・鬼高式・国分式の標式名は、広く用いられ定着した。
※この「業績・学風」の解説は、「杉原荘介」の解説の一部です。
「業績・学風」を含む「杉原荘介」の記事については、「杉原荘介」の概要を参照ください。
- 業績・学風のページへのリンク