遺跡の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:02 UTC 版)
神崎遺跡は目久尻川西岸の相模野台地辺縁部にあり、南北103メートル、東西65メートルの楕円形の環濠に囲まれた集落跡である。神崎遺跡は2世紀頃の弥生時代後期の遺跡と考えられており、当時日本各地に環濠に囲まれた環濠集落があったが、神崎遺跡は小型の環濠集落であった。1989年(平成元年)と2009年(平成21年)の発掘調査により、環濠内には10-15基程度の住居が存在していたものと考えられている。環濠の外側からはこれまで目立った遺物等は検出されておらず、神崎遺跡直下の目久尻川沿いの低地で行われたボーリング調査でも、当時の神崎遺跡直下の目久尻川流域はヨシなどが生い茂る沼や湿地であったと推定され、イネが栽培されていた証拠は見つからなかった。また神崎遺跡がある台地上はコナラなどの落葉広葉樹とともに、弥生時代頃の比較的寒冷かつ多雨の気候下で、モミ属が多い植生であったと考えられている。
※この「遺跡の状況」の解説は、「神崎遺跡」の解説の一部です。
「遺跡の状況」を含む「神崎遺跡」の記事については、「神崎遺跡」の概要を参照ください。
遺跡の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 17:50 UTC 版)
石野遺跡は全体がクサトベラの潅木の中にあり、約30×50メートルの範囲に分布している。しかしこれは1991年と1993年の限られた調査期間の中で確認された範囲であるため、本来の遺跡の範囲はもっと広いことが想定される。また遺跡全体が現在はカツオドリの営巣地となっていて、遺跡を構成する巨岩や積石、そして採集された土器などの中にはカツオドリの糞によって白くなっているものもあった。 遺跡は一定の規則性を持って配列された大きな石が見られ、また人頭大の礫や小石を積み上げた積石が確認できる。大きな石や積み石は北西と南東の二ヶ所に分かれて分布しており、その間には目立った石が見られない広場状の場所が存在する。北西側の大石や積み石群をA地区、南東側のものをB地区と呼んでいる。なおかつて北硫黄島に居住していた古老によれば、戦前から石野遺跡のある場所に石積が存在していることは知られていたという。。 A地区には二列のやや弧を描くように並ぶ大石があり、それら石列の上部は比較的平坦になっていて鏡石と名づけられた大岩がある。A地区とB地区の間の広場から見ると、A地区の光景は祭壇のように見える。鏡石の周囲には礫が並べられ、中には長方形の石皿や棒状の石が立てられている。また礫や小石などを積み上げた積石が10ヵ所確認されたが、外観のみからの判断であるため、正確な積石の数や内容については不明である。またA地区の石列のうち東側は崩壊している部分が目立つ。これは第二次世界大戦末期、日本軍の北硫黄島守備隊が防空監視壕を建設した際に崩壊した可能性が指摘されている。 A地区とB地区の間の広場は、長径約11メートル、短径約8.5メートルあり、比較的平坦であり目だった石は全く見られず、また土器や石器などの遺物の分布も少ない。ここは祭祀ないし墓地であると考えられるA地区とB地区の拝礼の場とも考えられている。また戦前、この広場にあたる付近はサトウキビの集積場であり、この地域に石や遺物が少ないのは、サトウキビ集積場を作る際に整地が行われた可能性がある。1993年の調査時、広場に5メートル×3メートルのトレンチが設定され、トレンチ内からは石器製作時の剥片、土器片、動物の遺体等が検出された。 B地区は広場の南東側に円弧を描く石列と積石が見られる比較的平らな区域と、その東側に広がる比較的急傾斜で大きな石が目立つ区域に分けられる。比較的平らな区域の東側は半円を描く幅約1.5メートル、高さ約1.0メートル、奥行き約1.2メートルという大きな石の列によって区切られ、また平らな区域の山側には直径6メートル程度の円を描く石列が存在する。そして円を描く石列の南外側にも石列が確認できる。 比較的急傾斜の区域には、遺跡発見のきっかけとなった、海からも望見できる線刻画が刻まれた幅約1.5メートル、高さ約1.6メートル、奥行き約1.5メートルの巨石があり、その周囲には大石を含む石が多数存在する。この区域の石の中には石囲いや石垣と見られるものがあり、これは第二次世界大戦末期、日本軍の北硫黄島守備隊が防空監視壕を建設した際の陣地跡と考えられている。戦時中の陣地構築による石積と遺跡を形成する石積は形態が明らかに異なり、区別が可能である。B地区東側の傾斜地に多くの石が集められているのは戦時中の陣地構築によるものばかりではなく、石列や石積を造る中で石の移動がなされたものと考えられている。 A地区と同じように、B地区にも礫や小石などを積み上げた積石が15ヵ所確認された。B地区の積石の特徴としては、平らな区域の南東側に円弧を描く石列の間を埋めるように作られたものが多く見られ、残りの石積は平らな区域に存在する。やはりA地区の積石と同じく外観のみからの判断であるため、B地区の正確な積石の数や内容については不明であるが、B地区の2号と名づけられた積石のみ1993年の調査時、積石の解体調査が行なわれた。調査期間中に発生した水難事故により調査は中断し、全ての積石の解体までには至らなかったが、積石の中から棒状の石器や石斧の破片、そしてシャコガイが検出された。 B地区内の巨石に確認された線刻画は、幅約1センチ、深さ数ミリの深さで刻まれており、山形、十字形、ひし形、αのような形が確認できるが、何について刻まれたものかは不明である。周辺の大石の中にも線刻画と思われるものが見られたが、詳細について確認されていない。
※この「遺跡の状況」の解説は、「石野遺跡」の解説の一部です。
「遺跡の状況」を含む「石野遺跡」の記事については、「石野遺跡」の概要を参照ください。
- 遺跡の状況のページへのリンク