不忍池埋め立て騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 22:39 UTC 版)
不忍池埋め立て騒動(しのばずのいけうめたてそうどう)は、1949年(昭和24年)を中心に、東京・上野恩賜公園にある不忍池の一部を埋め立て、国際野球場などの施設を建設しようとした計画に対し、地元や文化関係者が反対運動を展開した出来事である。最終的に埋め立ては実現せず、池は保存された[1]。
概要
第二次世界大戦中から戦後にかけて、不忍池は食糧増産のために開墾され、昭和21年(1946年)から昭和23年(1948年)にかけては田圃として米が栽培されていた。1949年に復旧が始まったものの、池は荒廃しており、これを整備して文化施設に転用しようという案が繰り返し浮上しては消えていた[2]。
昭和23年9月には「社会法人東京市施設協会」が設立され、不忍池の開発整備を進める計画が立てられた。しかし、その実態は池の一部を埋め立てて競馬場やドッグレース場を建設する構想であり、世論の強い反発を受けて実現には至らなかった。
ところが翌年秋、アメリカのプロ野球チーム・サンフランシスコ・シールズの来日が報じられると野球熱が高まり、大リーグの選手を招いて試合ができる規模の国際野球場を建設する構想が持ち上がった。その候補地として不忍池が注目され、1949年7月27日には、国際野球場建設委員会代表の中島久万吉が都議会に対し、池の南西部約1万2千坪(約4ヘクタール)の埋め立てを求める請願を提出した。都議会議員120名中78名が賛成署名し、請願は正式に受理されて建設委員会で審議されることとなった[1]。
この動きを受け、地元や文化団体は強く反発した。上野観光連盟会長の秋葉順蔵らは「不忍池埋立反対期成同盟」を結成し、反対運動を組織化した。また、東京国立博物館、国立科学博物館、東京都美術館、東京藝術大学、上野動物園など上野公園内の諸機関の職員による「上野公園文化会」も積極的に反対活動を展開した[3]。
1949年8月4日には、埋め立て予定地の池中に巨大な張子のアヒルが建てられた。この張子は、当時上野動物園の企画係長であった林寿郎や東京藝術大学の西大由らが中心となって製作したもので、「池から水をなくすな」と反対運動の象徴となった。さらに8月8日には、東京国立博物館講堂で上野公園文化会会長・上野直昭の呼びかけによる有識者会議が開かれ、反対意見が新聞紙上でも大きく報じられた。 こうした市民や文化関係者の強い反対世論により、不忍池の埋め立て計画は最終的に実現することなく頓挫した [1]。
参考文献
- 『上野動物園百年史 本編』(1982年、東京都恩賜上野動物園編、231-232p)
脚注
- ^ a b c 1982 & 東京都恩賜上野動物園編, p. 232.
- ^ 1982 & 東京都恩賜上野動物園編, p. 231.
- ^ “上野公園とその周辺 目でみる百年の歩み”. 上野観光連盟. 2025年9月26日閲覧。
外部リンク
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