革命哲学としての陽明学
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| 革命哲学としての陽明学 | |
|---|---|
| 訳題 | Wang Yangming Thought as Revolutionary Philosophy |
| 作者 | 三島由紀夫 |
| 国 | |
| 言語 | 日本語 |
| ジャンル | 評論、随筆 |
| 発表形態 | 雑誌掲載 |
| 初出情報 | |
| 初出 | 『諸君!』1970年9月号 |
| 初出時の題名 | 「革命の哲学としての陽明学」 |
| 刊本情報 | |
| 収録 | 『行動学入門』 |
| 出版元 | 文藝春秋 |
| 出版年月日 | 1970年10月15日 |
| 装幀 | 粟屋充 |
『革命哲学としての陽明学』(かくめいてつがくとしてのようめいがく)は、三島由紀夫の評論・随筆。三島の自決に至る思想と行動原理を考察する上で重要な評論の一つである[1][2][3]。陽明学を行動哲学、革命哲学として把握し、その〈忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の闘ひの方法を、深く探求しなほす必要[4]〉を提唱しており、数か月後に自決した三島の最後の予言・予告書とも見られている[2][1][5]。
※三島自身の言葉の引用部は〈 〉にしています(他の作家や評者の論文からの引用部との区別のため)。
発表経過
初出は1970年(昭和45年)、雑誌『諸君!』9月号の「総特集 アンポは終った……しかし」の一篇として口述筆記により掲載された[6][7]。この掲載時の題名は「革命の哲学としての陽明学」で[1]、口述筆記が実施されたのは6月下旬である[5]。
単行本は、1970年(昭和45年)10月15日に文藝春秋より刊行の『行動学入門』に収録され[8][1]、この収録の際に「革命哲学としての陽明学」に改題された[1]。
翻訳版はHarris I. Martin訳の英語(英題:Wang Yangming Thought as Revolutionary Philosophy)、韓国語(韓題:革命哲学으로서의陽明学)で行われている[9]。
作品背景
三島由紀夫はその約2年前の1968年(昭和43年)の中村光夫との対談の中で、江藤淳が研究している朱子学に対抗して陽明学を勉強しようという抱負を語り、朱子学とは結局は〈格物致知〉で〈スタティックな哲学〉であって、文学というものを捉える〈ダイナミズム〉が不足しているのではないかという疑問を呈していた[10][11]。
そして、この同年に三島は、井上哲次郎が1900年(明治33年)10月に発表した『日本陽明学派之哲学』(冨山房刊)を読み、自身の小説『豊饒の海』の第二巻『奔馬』の中でも主人公の飯沼勲が獄中でこの『日本陽明学派之哲学』を読む場面を描いている[11][12][13]。また三島は、それ以前に森鷗外の歴史小説『大塩平八郎』(1914年)も読み、大塩平八郎の哲学の一端に触れていたが、〈アポロン的な〉鷗外は大塩平八郎の〈ディオニュソス的な行動〉に対して十分な感情移入はしていないと述べている[14][11]。
なお、三島が18歳の時、『文藝文化』の同人で師である蓮田善明が吉田松陰について語っていた短文にも触れて回顧し[15][16][17]、〈真の憂国とは何かといふことを説いてゐる〉、〈私の大衆社会憎悪の念は、おそらくその根を、このやうな氏の教説に負うてゐるのであらう〉と述べていた[18][15][17]。
(吉田松陰は)「一友に啓発されて矍然 としてはじめて悟れり。従前天朝を憂えしはみな夷狄に憤をなして見を起こせり。本末すでに錯 れり。真に天朝を憂うるにはあらざるなり」と述べている。これは全く又天朝をいつぱいに仰ぎ奉つての言申しであらう。(中略)真の憂国は松陰の言にまで至つて全しといふべきか。
「行動学入門」「をはりの美学」と「革命哲学としての陽明学」の三つを収録した単行本『行動学入門』の「あとがき」には、三つのエッセイの共通点として〈何かによつてしか証明されないものを、別の不適当な方法、すなはち言語手段によつて証明しようとしたもの〉と概括し、これらは〈はじめから不可能な模索〉だとし、〈注意深い読者は、これらの中に、(私の小説よりもより直接に)、私自身の体験や吐息や胸中の悶々の情や告白や予言をきいてくれるであらう〉とも述べている[20][3][21]。
まじめで良心的なのも思想だが、不まじめで良心的といふ思想もあれば、又、一番たちのわるいのに、まじめで非良心的といふ思想もある。私はこの第三の思想にだけは陥りたくないと、日頃自戒してゐる者である。この本は、私の著書の中でも、軽く書かれたものに属する。いはゆる重評論ではない。しかしかういふ軽い形で自分の考へを語つて、人は案外本音に達してゐることが多いものだ。注意深い読者は、これらの中に、(私の小説よりもより直接に)、私自身の体験や吐息や胸中の悶々の情や告白や予言をきいてくれるであらう。いつか又時を経て、「あいつはあんな形で、かういふことを言ひたかつたんだな」といふ、暗喩をさとつてくれるかもしれない。 — 三島由紀夫「あとがき」(『行動学入門』)[20][3]
内容
三島は、行動哲学としての陽明学が、現代ではほとんど知られなくなり、〈政治家や、現実的な行動家のよつて立つべき基本的な哲学としてのメリット〉がほぼ失われてしまった原因の一端には、大正教養主義で育ち、国学や陽明学を忌避した白樺派や開明派などの世代が現代の日本において私的指導者層を占めていることもあるとする[22][23]。
そして〈乃木大将の死とともに終つた陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかつた。過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなつた〉と述べ、昭和初年の頃の陽明学の潮流は地下に潜流し過激な右翼思潮となる一方で、知識層の革命的関心のほとんどは、陽明学からマルキシズムに取って代わって、〈北一輝のやうな日本的革命思想の追究者は孤立した星〉となり、朱子学は大正教養主義・大正ヒューマニズムに取って代わったとする[22][23]。
しかし国学と陽明学はやりきれぬ代物だつた。国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になつた。インテリは触れるべからざるものになつたのである。
今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒してゐるいくつかの思想的タブーがあり、武士道では「葉隠」、国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがつて天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされてゐる。さういふものを何か「いまはしい」ものと考へるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落としてゐる。西欧的合理主義の移入者であり代弁者であるところに、自己のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なほ日本知識層の気質の底にひそんでゐる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまはしいもの、醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つであつたのである。 — 三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」[22][23][24]
しかし陽明学の〈能動的ニヒリズム〉と、国学の〈ミスティシズム〉が明治維新の革命状況を準備して培った事実は無視できないとし、明治維新の思想行動の先駆的な存在ともいえる大塩平八郎の乱や、大塩の思想書『
そして陽明学の「知行合一」は、〈認識〉と〈行動〉の問題であり、行動がなければ革命はあり得ず、結局は、〈認識と行動との背反にその存在理由のすべて〉をもつ平和な時代の大衆社会におもねろうとする〈認識至上主義〉は必然的に物理的法則に陥って、〈ニュートラル〉で〈超道徳的〉で〈無倫理〉となり、皮肉にも行動をないがしろにした自己満足的なものになってしまうと三島は批判する[25][23]。
万物創造の源であり、良知の極致である「
しかし、その「太虚」は、森鷗外が小説『大塩平八郎』の中でそれとなく皮肉めいてほのめかしているように、仏教の「空観」にも似てくることを三島は指摘する[25][12]。
そして、井上哲次郎の『王陽明の哲学の心髄骨子』を引きながら、陽明学の四つの理論的な柱(理気一元説、致良知説、知行合一説、四箇格言)の概論を紹介し、「知行合一説」は一元論であり、〈知〉を〈認識〉、〈行〉を〈行動〉として捉えながら、その両者の一致を最も自然で厳しいものであると三島は述べる[27][3][28]。
王陽明の哲学は〈一元的唯心論〉であり、朱子哲学の〈二元的実在論〉と対立するものであり、それは日本に移入されてから一層めざましく発展し、この思想は中江藤樹、熊沢蕃山を始めとして、林子平、梁川星厳、大塩中斎、佐藤一斎、西郷南洲、横井小楠、真木和泉守、雲井龍雄、その他、明治維新における多くの偉大な人物を産んだ[27][24]。三島は陽明学には〈アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る〉と述べる[27][11][29]。
そして三島は、45歳で憤死した大塩平八郎の生涯や人物像を概説し、天保の大飢饉で貧民救済をすぐに実行しない腐敗した権力者の跡部山城守や豪商に怒った彼が蜂起した大塩平八郎の乱や、大塩の思想書『洗心洞剳記』の要旨を解説する[14][30]。大塩が最も強調した「
形のあるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつてゆすぶられる。何故なら形があるからである。しかし、地震は太虚を動かすことはできない。これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を語ることができるのである。すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超脱して真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。また、心の外にある虚は、すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。この説は世界の実在はすなはちわれであるといふ点で、ウパニシャッドのアートマンとはなはだ相近づいてくる。 — 三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」[31][32][33][30]
また三島は、大塩の主張する、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む。心、死せざれば、即ち天地と無窮を争ふ。是故に一日を以て百年となし、心凜乎として深淵に臨むが如し」などを引用しながら、現代の戦後民主主義社会に生きる日本人は逆に〈心の死にやすい時代に生きてゐる〉とし、その社会が立脚している〈人命尊重のヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである〉と批判する[31][34][21][12][35]。
次に三島は、大塩平八郎の死から約40年経った明治の西南の役における西郷隆盛の死やその生きざまに触れ、西郷の生涯が陽明学の〈不思議な反知性主義と行動主義によつて貫かれてゐる〉ことに気づかされるとし、西郷の『手抄言志録』(佐藤一斎の『言志四録』から101条を抜粋抄録したもの)を繙きつつ、西郷が親友の月照と入水自殺し自分だけ生きのびてしまった静かな月夜の薩摩の海と、大塩が神秘的体験をもって「良知」の説に味到した嵐の琵琶湖は〈相照応〉しているように思えるとしている[36][26][37]。
また西郷の『南洲遺訓』の中で、特に大塩との因縁を結んでいるようにみえる、「聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、
さらに三島は、そうした〈行動の、次元を絶した境地〉は吉田松陰が獄中から品川弥二郎に宛てた書簡にもみられるとし、〈松陰は一つの空虚を巨大な空虚に結びつけ、一つの小さな政治的考慮を最高の理想に結びつけて、小さな行動を最終の理念に直結させるための跳躍の姿勢をさまざまにためした〉と考察し、松陰の言葉の「天地の悠久に比せば松柏も一時蠅なり」を忘れがたい一句とし、〈そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた〉とする[36][26][39][16][40]。
そして三島は、行動家の松陰が死を前にして得たその見方は同時に、〈空間的には太虚に入ることによつて、自分の小さな空虚をも太虚に帰することができる、といふ帰太虚の説を思ひ出させる〉と述べる[36][39][16][26][40]。
次に三島は、こうした日本人の陽明学哲学の基盤となった王陽明がその波瀾万丈の生涯の中で「致良知」という天地の根本精神を説いた経緯を語り、役人になった彼が宦官たちと衝突し島流しにされ中傷讒謗されるなど、人間社会の醜悪な裏面に傷つけられながらも、その思想に磨きをかけ、「真理は自分の中にあり」という〈神秘的な体験に到達したことが陽明学の起り〉であったと解説する[41][42]。
そして日本化して伝承された陽明学が、乃木大将の死に至り、日本現代史の表面から消え、その後の昭和の動乱時代からは〈日本人の行動様式のメンタリティの基本〉を形づくることで潜流し始め、〈完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況〉や〈無効を承知でやつた行動のいくつかのめざましい事例〉がみられると三島は述べる[41][29][43]。
三島は日本の近現代史に話を移し、日本における革命運動は〈日本的革命とは何ぞや〉という問題が閑却されてきたとし、そもそも革命はすべて外来思想であり、アジアの日本へ西欧近代化に随伴して移入されたマルキシズムという〈一つのアンチテーゼの思想〉が日本化するための〈苦しい血のにじむやうな努力〉が必要だった歴史を振り返りつつ、その革命思想の〈日本化肉体化〉への努力が、戦後の革命思想に正当に展開されないことを考察する[4][29]。また、戦後はアメリカ民主主義による〈突如の解放〉で、革命思想の〈日本化肉体化〉の問題は一時置き去りにされて、再び啓蒙思想や近代主義に戻り、思想は日本の風土性から離れてインターナショナルな外来思想ばかりになり、日本人の魂をゆさぶるような日本的革命には至らない状況を三島は解説する[4][29]。
そして、そうした日本の風土や故郷を喪失した時代環境の新左翼も未成熟なままで終わり、結局は〈予想されたやうな波瀾は見せずに、再び占領下と同じやうな論理が復活〉し、自民党も共産党も同じ次元に堕し、共に日本という国の〈政治目標実現の最終的な不可能を知りながら〉、目前の事態のことで〈大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか〉ということが目的化し、ただ〈政権獲得のための票数の増加と、日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな目的に対する有効性によつて判断してゐる〉ような1970年の状況において、三島は陽明学を提唱する[4][29][12]。
陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいとするかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつともきびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側にゐるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたやうに日本の行動家の魂の中でいつたん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。もし革命思想がよみがへるとすれば、このやうな日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から出発するより他はない。 — 三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」[4][44]
そして最後に三島は、日本の近現代史は、その厖大な西欧近代化の波の蔭で、〈多くの挫折と悲劇的な意欲を葬つてきた〉とし、日本人が西洋と戦う時、西欧化して西欧に勝つという理念を明治政府が掲げて突き進んでいき、昭和時代の第二次世界大戦で敗戦したことを振り返りつつ、今後の方向性を考察し、〈日本が貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである〉と主張する[4][5][44][43]。
反響
この評論発表の数か月後に起きた三島事件の衝撃をきっかけに、その真意を理解しようと『行動学入門』が多く買い求められ[45][1]、そこに収録されていたこの「革命哲学としての陽明学」には特に三島の直接行動の論理が語られていたため、出版界でも陽明学を再評価する動きが高まった[1][注釈 1]。
石川淳は、三島の死を受けて、三島が武士という強い観念を持ちながら剣術を始め、〈能動的ニヒリズムの根元〉である「太虚」に帰する「帰太虚」を説く陽明学という「知行合一」の行動哲学を持ったことが決定的だったとし[46]、三島の「いのちの水のあふれる壺」(肉体)の中の〈ニヒリズム〉が「太虚」へと飛び立っていった場所が、「武士」でない「サラリーマン」がたむろする「役所の屋上」であったことを残念に思うとした[46]。
作品評価・研究
田坂昂は、三島がまだ存命中に、三島の文学の特異性を論じ、死が濃厚だった戦争末期に青年期を過ごした三島の文学世界もまた「死と終末観の意識」が原点であり、そこには「近代が生んだ途方もない虚無の怪物」が棲み「世界の虚無に咲く幻の花――終末観の文学という三島文学のしるしは消しえないものとなっている」として「それはもはや払ってもはらってもおそってくる妄執のようなものになっているにちがいない」と評論していたが[47]、三島の死後、その自身の論を触れ返りつつ、三島は「虚無」のことを「虚無」という代わりに「薔薇」だといってきた、と述べた村松剛の言に触れつつ[48][注釈 2]、「世界の虚無のなかに幻の美しい薔薇の花を咲かせること」が三島にとっての芸術であり、その「美しい」は三島にとって「怖ろしい」と同義語でもあったとし、三島の作品に見られる「悲劇的なもの」「ディオニュソス的なもの」(「個体の破壊」による「根源的存在との合一」)、「美しい肉体の獲得と俗世から超脱した美しい悲劇的な死」への憧れを考察し、「現実・肉体・行為」がシノニムだった三島にとり「行為の芸術化」は必然的に内包されていたと解説している[51]。
そして田坂は、三島にとっての『仮面の告白』が「肉体の喪失篇」と呼べるなら、『太陽と鉄』は「肉体の獲得篇」であり、『革命哲学としての陽明学』は「肉体の行動篇」であったとして、〈能動的ニヒリズムの根元〉である「太虚」に帰することで、「肉体の行動は肉体の破滅へと」接続されていったと考察し、『仮面の告白』から『革命哲学としての陽明学』に至るニーチェの思想との同一性を指摘している[51]。
肉体の破壊が帰太虚ということであれば、それはほとんどニーチェのいう「個体の破壊」による「根源的存在との合一」と同じことをいっているとみなしても差支えあるまい。「太虚」とは「万物創造の源」のことであるとするなら、それはニーチェのいう「事物の一番奥の核心」と同じことであり、帰太虚とはそこへ帰ってゆくことである。このような肉体の破壊へむかって息苦しいまでに自己を追いつめてゆく姿のなかに帰太虚をねがう能動的ニヒリズムの姿をみているのであれば、私がさきに拙著からの引用のなかでいっている空っぽの闇をかつぐ神輿かつぎの若者たちのなかにすでにその原型はあったといえるのだ。これが三島由紀夫のいう「悲劇」の意味なのである。 — 田坂昂「その死の場合――三島由紀夫のニヒリズム」[51]
虫明亜呂無は『革命哲学としての陽明学』と併せて、陽明学の信奉者だった乃木希典を描いた司馬遼太郎の『殉死』を読むことを勧め、司馬が乃木を軍人であるよりも詩人、美学者として捉えていたことを解説し、司馬の『殉死』からの以下のような記述を引用して、乃木同様に三島にとっても死は「生涯追求した『おわり』の美の最終の具顕であった」としている[52]。
この(陽明学の)思想は人の系譜で考えるべきであろう。数はわずかでしかないが、そのほとんどのひとびとが劇的生涯を送った。(中略)陽明学にあっては身をほろぼすことによって仁と義をなし、おのれの美をなすというのがこの思想であった。(とくに乃木希典には)死は美であるとしか考えられなかったのであろう。—司馬遼太郎「殉死」[52]
斎藤順二は、『革命哲学としての陽明学』の中で言及される「知行合一説」を、〈認識〉と〈行動〉の一致にあると捉える三島の〈認識〉と〈行動〉の問題意識は、『青の時代』(1950年)や『金閣寺』(1956年)にも顕著な一貫した三島文学のテーマの一つであったとし、これが晩年の三島が陽明学に傾倒する萌芽でもあったと解説している[3]。
また斎藤は、三島が大塩平八郎の行動をニーチェの『悲劇の誕生』の〈ディオニュソス〉的な世界観に組み入れつつ、〈そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある〉、〈陽明学を革命の哲学だといふのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである〉と語っているところには、「もはや陽明学ではなくて、ニーチェの哲学そのもの」が見られるとしている[11]。そして大塩(中斎)が『洗心洞剳記』で説いている「心
三島は、見事に中斎との自己同一化をはかり、中斎の実践哲学を現代に蘇らせたということができるかもしれない。しかし中斎は、決して三島のように死を賛美したわけではなかった。死は生の最終的帰結であり、死を本当に知ってこそ初めて生きる意味が分かり得るのであり、いわば中斎は、逆説的な意味で死から生を捉えようとしたのである。つまりそれは、memento―mori(死を忘れるな)という言葉を持ち出すまでもなく、我々一人一人の虚飾を捨てた生きざまにかかわる問題なのである。大塩中斎の哲学が、主体性を喪失した現代人に訴えかけるのは、まさにこの点をおいて他ならない。 — 斎藤順二「三島由紀夫とその周辺 第一章 思想と文学・三島由紀夫 5 大塩中斎の死生観―『洗心洞箚記』をめぐって―III」[34]
保阪正康は、大塩平八郎の思想や行動を克明に追っていく三島の語りから、おそらく、この評論をまとめている時の三島は「大塩との同一化」の境地にあり、「だから現代にあって、大塩の心情を理解することは、己れ三島を理解することだとの叫びが、行間から幾重にもわき起ってくる」と述べて、この時期すでに三島が死を現実のものとして組み込んでいた経緯を鑑み、「数多い選択肢のなかから、ただひとつの行動だけを選択してしまった決行者の覚悟」がそこにはあるとしている[5]。
徳岡孝夫は、三島事件の直後に司馬遼太郎が、三島の死の「薄よごれた模倣者」が出ることを危惧し、「思想というものは、本来、大虚構で」あり、「思想は思想自体として存在し、思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに思想の栄光がある」として、一方で吉田松陰のように「思想と現実と結合すべきだというふしぎな考え方」も常にあるが、「大狂気」を発した純度の高い松陰の死と、三島の死は「別系列」にあると述べていたこと[53]に触れ、「模倣者が出ようが出まいが大きなお世話」であり、司馬が三島の『革命哲学としての陽明学』を全く読んでいなかったのは明らかだったと批判し[13]、三島の以下のような一節は、予め司馬のような「『良識的』書斎人の論」を先取りし反駁していたと解説している[13]。
しかし、ニュートラルでありえ、無倫理でありえてゐるのは、行動に自己を投入しない以上当然のことであり、行動はいやでも中立性の放棄と倫理的決断を要求する。それがいやだから行動しないといふ心理は、行動しないから行動を永久に恐れるといふ次の心理に至つて、悪循環に陥る。
北影雄幸は、朱子学の「理と気の二元論」「性即理」に対し、「理即気の合一論」「心即理」を唱え徹底的に唯心論の立場である陽明学が日本に移入されると、その「知行合一」の原理にさらに日本独特の武士道の「死生一如」(死も生も自然の一形態として一体)という概念も加わって適合・先鋭化し、禅の悟りの境地とも重なる宗教や美学の世界に属するものとしている[54][42]。そして陽明学が、美しく生き、美しく死ぬという武士の務めを果すための強力な一助になり、江戸や幕末における行動哲学として「とてつもないエネルギー」を放出した系譜を振り返りつつ[55]、「狂」の思想や「留魂」の思想を唱えた吉田松陰の三島への影響は大きいとし[56]、三島が〈認識至上主義〉者の欺瞞を語る文脈には、三島が最も軽蔑し、「男の性根をどこかに置き忘れてきてしまった人種」である「進歩的知識人」と呼ばれる「非行動のインテリ層」への批判が含まれていると解説している[23]。
そして北影は、三島が、吉田松陰や西郷隆盛も模範とした大塩平八郎の死生観の意義を語った後に現代日本の戦後民主主義社会の状況を問題視している文脈には、三島が自死の前にバルコニーで撒いた『檄』の内容と同様に戦後社会の堕落・腐敗への批判と、〈心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れてゐる人で日本中が占められてゐる〉ことへの危惧とともに、〈しかし、そこに肉体の生死をものともせず……〉の行には三島自身の「決意の表明」がみられ、「あとがき」からも、この評論を発表していた時点ですでに三島が「死を決していた」のは確かだとしている[21]。
この文章の後段の「しかし」以降は、きわめて重要である。これによっても、陽明学が三島の内部にあって血肉と化していることがわかるだろう。「そこに肉体の生死をものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が底流することになるのである」という一文は、三島の決意の表明とみなければならない。(中略)陽明学を志向した以上、それ(死)はまた当然のことであり、三島は自らを国家の捨て石として規定し、体制の変革を切望したのである。 — 北影雄幸「三島由紀夫と葉隠武士道 第二章 三島由紀夫と陽明学【十四 現代社会の腐敗堕落】[21]
山内由起人は、三島の最晩年の主題の一つは「いかにして良知に達するか」ということだったとし、『豊饒の海』の第一巻『春の雪』の冒頭で松枝清顕が〈悲哀〉を感受して見入っている日露戦没写真集の中の一枚「得利寺附近の戦没者の弔祭」の構図の描写に聡子との恋物語で清顕が滅びることが暗示されていることと[57]、清顕が本多繁邦とともに松枝邸の庭の池でボートに乗っている場面で〈水を充たした革袋のやうなこの世界の底に小さな穴があいてゐて、そこから一滴一滴「時」のしたたり落ちてゆく音を聴くやうに〉思う描写に、三島が『革命哲学としての陽明学』で言及した大塩平八郎の嵐の琵琶湖での体験と西郷隆盛の月夜の薩摩の海での体験の重なりがみられ、これらの描写は清顕が垣間見た「太虚」であり、第四巻の『天人五衰』の結末と「円環的に」結ばれ、本多が体験する時間こそ「太虚」であり、同時に三島自身も現実に「太虚」に帰することを意味していたと考察している[57]。
また山内は、「帰太虚」と「致良知」という主題は、『太陽と鉄』の中のエピローグのF104超音速ジェット機の搭乗記にもすでに語られていたとし、音速を超えた瞬間に三島が見た〈蛇〉、〈永遠に自分の尾を嚥んでゐた〉蛇こそ、「時間と空間の円環的世界の象徴」であり、〈かがやく天空の彼方にあつて、われわれを
さらに、横笛の音色に聴き入り「自然と一体化した静謐な時間のなかにいる」三島がうかがえる最後の短編小説『蘭陵王』にも、「帰太虚」としての「万物創造の源への回帰」が描かれていると山内は述べ、「太虚」は〈世界の実在〉であり、〈世界の実在はすなはちわれである〉という〈ウパニシャッドのアートマン〉と相近づき、輪廻転生思想に通じるとして、『蘭陵王』は「太虚」に帰することによって「良知に達する神秘的体験を描いた小説」であるとしている[58]。
西法太郎は、三島が吉田松陰の〈忘れがたい一句〉として「天地の悠久に比せば松柏も一時蠅なり」を挙げ、〈そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた[36]〉と語っている文脈には、松陰の思想を自身の「死への跳躍のブースターとしたこと」がうかがえると考察している[16]。
「天地の悠久に比せば松柏も一時蠅なり」とは大義を前にしてこれを守らずにおめおめと生き長らえるのであれば、百まで生きても短命というべし、何年生きれば気が済むのか、ということだ。三島が行動家としての松陰を、その思想を、みずからの死への跳躍のブースターとしたことがうかがえる。 — 西法太郎「死の貌 ――三島由紀夫の真実 第三章瞋恚 ―市ヶ谷に果てたもの【吉田松陰】」[16]
元楯の会一期生の篠原裕は、「陽明学を抜きにしては三島の最後の行動を理解することはできない」とし[24]、三島がこの評論で大塩平八郎についての親近感を以下のように語る中には、〈偽善〉を最も嫌った三島自身が、敗戦後の「日本国憲法と戦後民主主義という巨大な偽善」に自らをぶつけて死ぬことの難しさを思いながら語っていたのではないかと考察している[35]。
現代といふ巨大な偽善の時代にあつて、虚偽を卑しんだ大塩の精神は、われわれが一つの偽善を容認すれば、百、千の偽善を容認しなければならないことを教へてゐる。そして、偽善はたちまち馴合ひを生じ、一つの偽善に荷担した人間は、同じ偽善に荷担した百万の人間と結ぶのである。大塩はこの偽善に体をぶつけて死んだのだともいへよう。
そして日本化された陽明学が〈ムダを承知の政治行動〉に進んでいったことを語る中で、〈陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは予言してもよい〉と言っている部分で、三島が自らの三島事件を予告していたと篠原は解説している[43]。
エピソード
初出雑誌の『諸君!』の編集長の田中健五が1970年(昭和45年)の初夏、三島に寄稿を依頼すると「俺はいま陽明学のことしか興味がない。陽明学についてならしゃべってもいいよ。ただし原稿を書くのはお断りだ。忙しすぎるのでね」と言われたため、麹町の旅館で口述筆記することになった[60][61][62]。口述筆記は通常、作家の談話を速記にとってから、それを編集者が文章体に直すというのが定番であるため、田中もそのつもりでいたところ、三島は話し出すと、「である」調のきちんとした言葉で滔々とよどみなく語り、特に編集者が文章体に改める必要がなかったという[60][61][注釈 3]
三島氏は煙草をうまそうに一服し、庭の木立ちを見やりながら「それじゃ始めますか」と言ったかと思うと、滔々と「である」調の文章体でしゃべり始めた。レンガを積むような氏独特の正確で論理的な文章がなめらかに口をついて出てき、ほとんど言いなおしがない。長い編集者生活でもこんな経験ははじめてだった。 — 田中健五「編集後記(『諸君!』1970年9月号)」[60]
これと同様の感想は、『文章読本』を口述筆記した当時『婦人公論』の編集者だった近藤信行の述懐でも、煙草の煙をはき出しながらすらすらとしゃべり出す三島の語り方について、「ときおり虚空をみつめるように、あるときは速記者のしなやかな手つきに眼をおとしながら、三島さんはこの仕事をつづけた。それは機械のような正確さで、ほとんどよどみなく言葉が流れ出るのだった」と感嘆しており[63][61][62]、講談社の三島担当編集者だった川島勝は、これらの編集者の話は、「三島の底知れぬ明晰さ」を示すエピソードだとしている[61][62][注釈 4]
関連評論
『革命哲学としての陽明学』を口述筆記した同時期の1970年(昭和45年)6月11日に三島は、早稲田大学政経学部の学生を中心とした会で楯の会会員が多く重複していた「尚史会」の根城「戸塚蛟龍塾」(高田馬場のアパートの一室の呼び名)において、吉田松陰についての講演(座談)を行ない、その録音を阿部勉が文字起しし謄写版刷の機関誌に掲載した『「孤立」のススメ』がある[66][67]。
『「孤立」のススメ』は「一、人間が理解し合へるといふ嘘について」、「二、よど号と狂つた日本人について」、「三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」、「四、自民党、共産党は賢いといふことについて」、「五、『女』は金持ちと美男子が好きだといふことについて」、「六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」、「七、絶望から思想を磨くといふことについて」の全7章から成り[68]、6章の中では〈松陰が異常に孤立した、自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです〉と語っており[68][67][69]、7章では、〈能動的虚無、さういつた絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない〉ということを以下のように語っている[68][67]。
左翼の大衆運動といふものは、大衆を動かさなければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。ところがわれわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、さういつた絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。かりにも世間を甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにもならないところまで来てゐることを自覚して欲しい。 — 三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」[68][67]
また、1970年4月に行われた中曽根康弘主宰の「山王経済研究会」例会での講演『現代日本の思想と行動』の中でも吉田松陰に触れながら、〈けふ役に立つこと、あるひはけふ手当てをすることは松陰はいはなかつた〉と安政当時は〈無効だつた〉、有効性を度外視した行動に言及している[70][16]。
おもな収録刊行本
単行本
- 『行動学入門』(文藝春秋、1970年10月15日)
- 装幀:粟屋充。紙装。茶色帯。
- 収録内容:「行動学入門」「おわりの美学」「革命哲学としての陽明学」「あとがき」
- 文庫版『行動学入門』(文春文庫、1974年10月25日)
全集
- 『三島由紀夫全集34巻(評論X)』(新潮社、1976年2月25日)
- 『決定版 三島由紀夫全集36巻・評論11』(新潮社、2003年11月10日)
脚注
注釈
- ^ 後藤基巳『陽明学入門――迷いを許さぬ行動の哲学』(青春出版社、1971年7月)などが一例である[1]。
- ^ 実際に三島が言っていたのは〈世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる〉である[49][50]。
- ^ 田中健五はこれと同様の述懐を「日本中が沸騰した四〇〇〇日」(文藝春秋、2003年9月号 pp. 262-271)でもしている[7]。
- ^ 川島勝は同書の中で、新潮社の編集者だった野平健一の述懐での「当代まれにみるクレバーな認識者で、そのアタマはペンタゴン(アメリカ国防総省)の電子計算機以上に働く三島」[64]という表現も引用している[65][62]。
出典
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関連項目
外部リンク
- 革命哲学としての陽明学のページへのリンク