野平健一とは? わかりやすく解説

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野平健一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 04:04 UTC 版)

野平 健一(のひら けんいち、1923年2月2日 - 2010年7月5日)は、東京府出身の編集者

経歴

中野区立桃園第二小学校、東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高等学校)から第三高等学校文科丙類を経て、1942年9月、京都帝国大学文学部入学。1943年12月、大学の徴兵猶予を停止され学徒出陣し、三等水兵として横須賀市の武山海兵団に入隊。その後、海軍の飛行科予備学生となる。静岡県大井海軍航空隊に所属し終戦1945年10月、中尉として復員、京都大学に復学、1946年9月に卒業した。

1946年8月26日、応募700名中2名の被採用者として新潮社に入社(もう一人の被採用者は野原一夫)。『新潮』編集部に勤務。同年秋、太宰治の短篇『親友交歓』の原稿を読んだことがきっかけでその熱烈な愛読者となる。1ヵ月後より文芸編集者として太宰を担当。晩年の連載『斜陽』などを受け持つ。頭脳の明晰さから「カミソリノヒラ」と渾名された。この頃、新宿歌舞伎町の小料理屋「ちとせ」のマダムであった房子と出会い、結婚。房子は向島の料亭の娘で、一時作家の谷丹三の妻であった[1]。太宰の小説「女類」[1]はこの恋愛をモデルにしている。太宰の死の翌年に、田中英光(太宰に師事)が三鷹市にある墓前で自殺した際に、駆けつけ彼を病院へ運んだのも野平であった。

1955年12月、『週刊新潮』創刊に参与、1956年2月から同誌編集部に異動、特集部門を担当する。1964年4月から『週刊新潮』編集長になり、齋藤十一の補佐役を務め、激務をこなす[2]

1966年には、『週刊新潮』連載の梶山季之の小説『女の警察』によって刑法175条(猥褻物頒布)の容疑で略式起訴され、著者梶山と共に罰金5万円の有罪判決を受けたこともあった。なお同誌は民事訴訟もたびたび起こされている。

1973年新潮社取締役1981年常務取締役。1992年3月、相談役となり第一線を退く。

2010年7月5日老衰のため死去[3]。87歳没。

著書

  • 矢来町半世紀 太宰さん三島さんのこと、その他(新潮社、1992年)
  • 西暦1999 続矢来町半世紀(私家版、1999年)
  • 太宰治氏の大逆説 続々矢来町半世紀(私家版、2002年)

参考文献

  • 「野平健一」-『時代を創った編集者101』(寺田博編、新書館、2003年)

脚註

  1. ^ 『文士風狂録』大川渉 筑摩書房 2005 p50
  2. ^ 2006年の『週刊新潮 50周年記念誌』の回想インタビューでは、夫人が毎日の多忙で深夜帰宅が重なり激怒したこともあった。
  3. ^ 野平健一氏(元週刊新潮編集長、新潮社顧問)死去 共同通信/47NEWS



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