20歳の映画監督
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1905年(明治38年)、のちにタカマツ・アズマプロダクションを創立する映画プロデューサー、高松豊次郎の三男として生まれる。当時、高松は台湾と日本を往復しており、出生地は不明である。姉・雪の婿は映画監督・映画理論家の山根幹人、長兄は同社吾嬬撮影所長だった高松幹一、次兄は撮影技師の小谷三郎。ひとり娘はのちに脚本家となる岡本育子、兄・幹一の娘は、のちに沢島忠の妻となるスクリプターの高松冨久子であった。 関東大震災後、20歳になる1925年(大正14年)9月11日、高松プロダクション「吾嬬撮影所」の第1回作品『義憤の血煙』が東京「有楽座」で公開されたが、同作を監督してデビューする。同作は新国劇の座付作者行友李風の原作、まだ「室町次郎」だったころの脇役俳優大河内伝次郎が脚本を書いて、大河内を初めて主演に抜擢している。カメラは次兄・小谷三郎だった。ひきつづき、山根のプロデュースにより近藤伊与吉主演作『噫飯束巡査部長』を監督、同年12月31日に浅草「大東京」、「マキノ・プロダクション御室撮影所」の正月作品として公開されている。翌日である1926年(大正15年)1月1日には、高松操監督の『クロスワード』が「マキノ・プロダクション東京撮影所」(つまりタカマツの吾嬬撮影所)の正月作品として公開されている。藤川三之助と、近藤の妻・三島洋子の主演作で、いわゆる「マキノ東京派」の主流をなしていく。 マキノは1926年2月11日公開の近藤の監督・脚本・主演作『名士』をもって、高松と組んだ東京作戦から撤退してゆくが、タカマツプロは、マキノ流の自主配給を標榜し、製作をつづける。高松操は1927年(昭和2年)前半までの間に、同プロダクションで8本の映画を監督する。同年タカマツプロは解散する。
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