20歳で世界王者に
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福岡県大牟田市三里町に生まれる。大牟田市立中友小学校1年生の時、道場に通う友人の縁で尚武館道場にて柔道を始めた。1986年の春に大牟田市立船津中学に進学するが、この中学に柔道部はなかったため、引き続き尚武館で稽古に励む。日本中学校体育連盟の大会に出るため船津中に形だけの柔道部を作ってもらい、1人で個人戦に出場。中学3年の時に全国大会の軽量級で優勝した。 中学卒業後は柳川高校に進み、柔道部に籍を置く。高校2年次のインターハイで優勝したほか、2年次,3年次と全日本新人体重別選手権(現・全日本ジュニア選手権)を連覇している。卒業前には初めての海外大会となるハンガリー国際大会も制してシニア初タイトル。 1992年に明治大学経営学部に進学し、同大柔道部に籍を置いた。原吉実監督・秀島大介主将が率いる当時の明大柔道部は、OBの小川直也や吉田秀彦らも顔を出すなど非常にレベルの高い稽古が行われていた。軽量級とはいえインターハイの覇者である園田だったが、入部当初は部で一番弱く、マネージャーにさえ投げ飛ばされた。園田は「自分がやっていけるのか、本当に心配になった」と述懐する。また寮では先輩の道衣も含め1日に6~10着洗うなど、稽古外でも体育会系特有の試練を味わった。 「稽古に夢中でついていった」と園田はいう。入学して半年後にブエノスアイレスで開催された世界ジュニア選手権で優勝すると、2年生になって直後の講道館杯で3位入賞、全日本選抜体重別選手権優勝と立て続けに好成績を残し、一躍60kg級のトップに躍り出た。同じく1993年には、秋のハミルトン世界選手権で日本代表として出場する。園田曰く「日本代表の中で最年少だったので気楽だった」との言葉通り、1回戦こそ大外刈を掛けに行ってひっくり返ってしまい技ありを取られたものの、以降は勢いで勝ち上がり、準決勝戦で前年のオリンピック銅メダリストであるドイツのリヒャルト・トラウトマンを、決勝戦では同オリンピック金メダリストであるアゼルバイジャンのナジム・グセイノフを逆転の払腰技ありで破って初出場・初優勝を飾った。弱冠20歳の世界チャンピオンはベテランの越野忠則らに代わり一躍アトランタオリンピックの有力候補となった。11月29日には世界選手権での功績により大牟田市民栄誉賞を受賞。
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20歳で世界王者に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:21 UTC 版)
町立大野小5年次より柔道を始めた。町立大野中学校から大垣日大高校へと進学。高校時代には既に周囲の期待を集め、2年次には全日本の合宿にも参加している。高校3年次の1984年、インターハイ個人戦の軽重量級で優勝。 筑波大学に進学するが、前述の通り既に全日本合宿を経験していた岡田は、目標は世界だけと定めており、本人曰く「学生大会には全くと言っていいほど興味が無かった」との事。その言葉が示すように、入学してすぐの講道館杯で準優勝すると、翌86年には体重無差別の全日本選手権で2試合勝ち進むなど健闘を見せたほか、10月の嘉納治五郎杯で優勝し、シニア初タイトル。87年には全日本選手権で3位入賞を果たすと、全日本選抜体重別選手権で優勝し、同年11月にエッセンで開催される世界選手権の代表に選出され、この大会でも危なげなく優勝を果たした。岡田はこの世界選手権の事を、「負けるという不安がよぎった事はなかった」「日本の柔道が一番強いと信じていた」と振り返る。挫折や怪我もなく弱冠20歳で一気に世界の頂点に昇りつめ順風満帆のように見える岡田だが、当時を「負ける気はしなかった」と言い放つ自信の根拠は、限界まで自分を追い込み続けた毎日の稽古だった。
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