旅芸人から映画監督へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/03 17:00 UTC 版)
「ヴィクトル・シェストレム」の記事における「旅芸人から映画監督へ」の解説
翌1896年に父親のオロフが死去すると、シェストレムは再び役者を志すようになる。経済的な理由から王立演劇学校で俳優としての正規の教育を受けることができなかったシェストレムは、旅芸人の一座を率いてスウェーデンやフィンランドを巡業する。結局その後10年以上に渡って北欧各地を旅して回ったシェストレムだが、この時期に俳優や演出家としての素養を身に付けることになった。 そんなシェストレムに転機が訪れたのは、1912年のことである。巡業中に培った演出家としての能力を認められたシェストレムは、映画プロデューサーのチャールズ・マグナソンに誘われ、当時急成長を遂げていた映画会社のSvenska Biograf社(Svensk Filmindustri社の前身)に就職することになる。ここでシェストレムは、ほぼ同時期に入社したマウリッツ・スティッレルらと共に、創成期のスウェーデン映画界でサイレント映画製作に携わることになる。シェストレムの監督デビュー作は、1912年に公開された『Ett hemligt giftermål』であった。 その後シェストレムはSvenska Biograf社の看板作家として、次々と話題作を発表していく。1912年に公開された監督第二作の『Trädgårdsmästaren』は、映画中にレイプを示唆する描写があるとして、スウェーデン国内の検閲機関から上映禁止処分を受けてしまう。翌1913年には、映画史上初めて社会派リアリズムの手法を用いた『Ingeborg Holm』を発表、スウェーデン国内で大いに物議を醸すことになる。1917年製作の『波高き日』は、当時としては記録的な制作費をつぎ込んだ大作であり、スウェーデン映画の黄金時代の幕開けを告げるものになった。1918年の『生恋死恋』は、シェストレム初期の傑作であると同時に、スウェーデン映画黎明期を代表する作品として高く評価されている。1921年に発表された『霊魂の不滅』は、フラッシュバックを多用した物語構造や、二重露光を駆使して撮影された幻想的な映像美が1920年代には革新的なものであり、スウェーデン映画史上で最も重要な作品の一つに数えられている。
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