歌舞伎界へとは? わかりやすく解説

歌舞伎界へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 13:36 UTC 版)

市川右太衛門」の記事における「歌舞伎界へ」の解説

大阪市立九条東小学校卒業後、上方歌舞伎第一人者2代目市川右團次弟子となり、市川 右一いちかわ ういち)の名をもらう。のち中村扇雀2代目治郎)が座頭関西青年歌舞伎一員となる(座員はほかに市川百々之助長丸長谷川一夫)、嵐徳太郎嵐寛寿郎)らがいた)。屋号は「高島屋」で、主役張って人気集めた。やがて『勧進帳』の武蔵坊弁慶など大役任せられるようになったが、門閥出身はないた出世には限界があった。 1924年大正13年)、帝国キネマから映画界入り誘いを受けるが、このときは断っている。

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歌舞伎界へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 01:40 UTC 版)

嵐寛寿郎」の記事における「歌舞伎界へ」の解説

1919年大正8年)、手代から番頭出世しようという17歳のときに、主人死去一から丁稚やり直し御免と、祖母頼んで愛知県岡崎市巡業中の片岡松之助一座加入。「食事は卵に味噌汁付き給金五円」の待遇に「丁稚奉公ツキイチとは雲泥の差やった」と述べている。一座はちょう片岡義士劇の大石主悦役の役者が女をこしらえ逐電したところで、「嵐徳太郎」の芸名をもらい、数え18歳でいきなり主悦役の初舞台を踏む。この義士劇にはチャンバラがあり、ここで殺陣覚えた当人はこれでかなり自惚れたというが、片岡義士劇では役はいつまでたっても大石主悦役のみだった。「飲む打つ買う」の巡業生活に染まってオイチョカブ誘われ松江巡業先で大事な衣装紋付まで質に入れる大負けとなり、着の身着のまま京都逃げ帰る1921年大正10年)、初代中村扇雀中村鴈治郎一座の、当時ちんこ芝居」と呼ばれた関西青年歌舞伎」に加わり女形となる。ここには市川寿之助のほか、のちに映画に移る市川百々之助市川右一(のちの市川右太衛門)、長丸(のちの長谷川一夫)など将来ライバルたち同期生所属していて、百々之助、右太衛門長丸アラカン四人揃って腰元役で舞台踏んだこともあったという。「不謹慎にいえば、オイチョカブおかげで桧舞台を踏むことがでけた」と語っている。芝居世界は女買いが盛んで、若い徳太郎は酒は飲めなかったが「モテモテて」、粋筋から引く手あまただったが、女郎を買うときは必ず根引き独占)にしていた。 1923年大正12年)、腰元役ばかりでうだつの上がらぬ現状に不満を抱き、「桐竹紋十郎の孫なんぞ大歌舞伎の世界では通用しない」と悟った嵐徳太郎は、「二流小屋でもいいから芝居らしい芝居がしたい」と東京宮戸座で「大衆歌舞伎」を掲げた叔父の徳三郎一座加入。この夏、好きになった年増芸妓駆け落ち決意出奔当日9月1日正午関東大震災発生結局女も金も失い失意のまま京都戻り、「しばらくふぬけていた」という。 しばらくして叔父の徳三郎東京から引き揚げ先々代片岡仁左衛門を「うわのせ特別出演)」して、大阪松島八千代座での旗揚げ公演決定誘いをかけてきた。母親態度変えて勧めたので、「月給五十円」で加入決意屋号葉村屋叔父三郎から「嵐和歌太夫」の芸名をもらう。この一座片岡千栄蔵(のちの片岡千恵蔵)と鏡台並べる。 1926年大正15年)、芸妓振られ自棄気味だった和歌太夫女出入り激しく、ついに淋病罹り子種を失うこととなる。入院中は「煙草三箱」で千栄代役頼んだ難聴おかげで徴兵検査丙種失格となる。

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歌舞伎界へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:32 UTC 版)

阪東妻三郎」の記事における「歌舞伎界へ」の解説

1916年大正5年)、旧制尋常小学校高等科卒業した後、母や姉が常盤津長唄芸事秀でていたことや芝居好きだったことから「立身出世早道」を求め16歳成績表片手舟町にあった十五代市村羽左衛門の邸へ飛び込むが門前払いされた。 落ち込んで帰宅する途中近く十一代目片岡仁左衛門の邸に思い切って飛び込んでみたところ伊東という番頭取り次いでくれて、「まあ遊んでいろ」と仁左衛門内弟子許される仕事雑用ばかりで、しつけは厳しく雑用合間黒衣着で舞台見学しながら狂言ノートをとる毎日だった。師匠について大阪中座で「紙子仕立両面鑑」の序幕仕込み出たのが初舞台で、セリフはなかった。 1918年大正7年)、二年辛抱するがうだつが上がらず因襲家柄優先歌舞伎の世界限界感じ始め、「一日二回、十日替り芝居ならもっと修行ができる」と結論。金にもなるということから、ちょうど浅草吾妻座から声がかかり、沢村宗五郎吾妻市之丞らの一座入り、「沢村紀千助」を名乗る下っ端なりに役も付くようになったが物にならず、市之丞に連れられて再び歌舞伎座戻り師匠仁左衛門顔向け出来ぬ苦しみを味わう。こうしたなか、縁あって神田劇場中村歌扇や尾上菊右衛門一座することとなる。

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歌舞伎界へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 21:46 UTC 版)

嵐徳三郎 (6代目)」の記事における「歌舞伎界へ」の解説

1889年明治22年)、五代目嵐璃寛門人として、七歳で大阪角座で「嵐徳太郎」の名で初舞台1896年明治29年十四歳で四代目嵐和三郎襲名女形として活動続ける。 1923年大正12年)、東京宮戸座で「大衆歌舞伎」を掲げ一座旗揚げ。甥の嵐徳太郎嵐寛寿郎)も加入9月脱退)。嵐家は関西劇壇名門だが、この頃には斜陽一門となっていた。 1924年大正13年)、東京引き上げ十一代目片岡仁左衛門を「上乗せ特別出演)」に担ぎ上げ大阪松島八千代座ちんこ芝居青年歌舞伎)の「片岡義士劇」旗揚げ公演。甥の嵐徳太郎誘い、「嵐和歌大夫」の名を与える。この一座には片岡千栄蔵片岡千恵蔵)もいた。 1927年昭和2年)、甥の嵐和歌大夫巡業先から二度目逐電牧野省三マキノプロ入社1929年昭和4年)、大阪八千代座六代目嵐徳三郎襲名する。甥の嵐寛寿郎映画界成功したのに刺激され活動写真世界転向をはかる。

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