歌舞伎界へ
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大阪市立九条東小学校卒業後、上方歌舞伎の第一人者・2代目市川右團次の弟子となり、市川 右一(いちかわ ういち)の名をもらう。のち中村扇雀(2代目鴈治郎)が座頭の関西青年歌舞伎の一員となる(座員はほかに市川百々之助、林長丸(長谷川一夫)、嵐徳太郎(嵐寛寿郎)らがいた)。屋号は「高島屋」で、主役を張って人気を集めた。やがて『勧進帳』の武蔵坊弁慶など大役も任せられるようになったが、門閥出身ではないため出世には限界があった。 1924年(大正13年)、帝国キネマから映画界入りの誘いを受けるが、このときは断っている。
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歌舞伎界へ
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1919年(大正8年)、手代から番頭に出世しようという17歳のときに、主人が死去。一から丁稚のやり直しは御免と、祖母に頼んで愛知県岡崎市で巡業中の片岡松之助の一座に加入。「食事は卵に味噌汁付き、給金五円」の待遇に「丁稚奉公のツキイチとは雲泥の差やった」と述べている。一座ではちょうど片岡義士劇の大石主悦役の役者が女をこしらえ逐電したところで、「嵐徳太郎」の芸名をもらい、数えで18歳でいきなり主悦役の初舞台を踏む。この義士劇にはチャンバラがあり、ここで殺陣を覚えた。 当人はこれでかなり自惚れたというが、片岡義士劇では役はいつまでたっても大石主悦役のみだった。「飲む打つ買う」の巡業生活に染まって、オイチョカブに誘われ、松江の巡業先で大事な衣装の紋付まで質に入れる大負けとなり、着の身着のまま京都へ逃げ帰る。 1921年(大正10年)、初代中村扇雀(中村鴈治郎)一座の、当時「ちんこ芝居」と呼ばれた「関西青年歌舞伎」に加わり、女形となる。ここには市川寿之助のほか、のちに映画に移る市川百々之助、市川右一(のちの市川右太衛門)、林長丸(のちの長谷川一夫)など将来のライバルたちが同期生所属していて、百々之助、右太衛門、長丸、アラカンの四人が揃って腰元役で舞台を踏んだこともあったという。「不謹慎にいえば、オイチョカブのおかげで桧舞台を踏むことがでけた」と語っている。芝居の世界は女買いが盛んで、若い徳太郎は酒は飲めなかったが「モテにモテて」、粋筋から引く手あまただったが、女郎を買うときは必ず根引き(独占)にしていた。 1923年(大正12年)、腰元役ばかりでうだつの上がらぬ現状に不満を抱き、「桐竹紋十郎の孫なんぞ大歌舞伎の世界では通用しない」と悟った嵐徳太郎は、「二流の小屋でもいいから芝居らしい芝居がしたい」と東京宮戸座で「大衆歌舞伎」を掲げた叔父の徳三郎の一座に加入。この夏、好きになった年増の芸妓と駆け落ちを決意。出奔の当日9月1日正午に関東大震災が発生。結局女も金も失い、失意のまま京都へ戻り、「しばらくふぬけていた」という。 しばらくして叔父の徳三郎が東京から引き揚げ、先々代片岡仁左衛門を「うわのせ(特別出演)」して、大阪松島の八千代座での旗揚げ公演を決定。誘いをかけてきた。母親も態度を変えて勧めたので、「月給百五十円」で加入を決意。屋号を葉村屋、叔父徳三郎から「嵐和歌太夫」の芸名をもらう。この一座で片岡千栄蔵(のちの片岡千恵蔵)と鏡台を並べる。 1926年(大正15年)、芸妓に振られ自棄気味だった和歌太夫は女出入りが激しく、ついに淋病に罹り、子種を失うこととなる。入院中は「煙草三箱」で千栄蔵に代役を頼んだ。難聴のおかげで徴兵検査を丙種失格となる。
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歌舞伎界へ
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1916年(大正5年)、旧制・尋常小学校高等科を卒業した後、母や姉が常盤津や長唄の芸事に秀でていたことや芝居が好きだったことから「立身出世の早道」を求め、16歳で成績表片手に芝明舟町にあった十五代目市村羽左衛門の邸へ飛び込むが門前払いされた。 落ち込んで帰宅する途中、近くの十一代目片岡仁左衛門の邸に思い切って飛び込んでみたところ、伊東という番頭が取り次いでくれて、「まあ遊んでいろ」と仁左衛門の内弟子を許される。 仕事は雑用ばかりで、しつけは厳しく、雑用の合間に黒衣着で舞台の見学をしながら狂言のノートをとる毎日だった。師匠について大阪中座で「紙子仕立両面鑑」の序幕の仕込みに出たのが初舞台で、セリフはなかった。 1918年(大正7年)、二年辛抱するがうだつが上がらず、因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ始め、「一日二回、十日替りの芝居ならもっと修行ができる」と結論。金にもなるということから、ちょうど浅草の吾妻座から声がかかり、沢村宗五郎、吾妻市之丞らの一座に入り、「沢村紀千助」を名乗る。 下っ端なりに役も付くようになったが物にならず、市之丞に連れられて再び歌舞伎座に戻り、師匠の仁左衛門に顔向け出来ぬ苦しみを味わう。こうしたなか、縁あって神田劇場で中村歌扇や尾上菊右衛門と一座することとなる。
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歌舞伎界へ
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「嵐徳三郎 (6代目)」の記事における「歌舞伎界へ」の解説
1889年(明治22年)、五代目嵐璃寛門人として、七歳で大阪角座で「嵐徳太郎」の名で初舞台。 1896年(明治29年)十四歳で四代目嵐和三郎を襲名。女形として活動を続ける。 1923年(大正12年)、東京宮戸座で「大衆歌舞伎」を掲げ、一座を旗揚げ。甥の嵐徳太郎(嵐寛寿郎)も加入(9月に脱退)。嵐家は関西劇壇の名門だが、この頃には斜陽の一門となっていた。 1924年(大正13年)、東京を引き上げ、十一代目の片岡仁左衛門を「上乗せ(特別出演)」に担ぎ上げ、大阪松島の八千代座でちんこ芝居(青年歌舞伎)の「片岡義士劇」旗揚げ公演。甥の嵐徳太郎を誘い、「嵐和歌大夫」の名を与える。この一座には片岡千栄蔵(片岡千恵蔵)もいた。 1927年(昭和2年)、甥の嵐和歌大夫が巡業先から二度目の逐電、牧野省三のマキノプロに入社。 1929年(昭和4年)、大阪八千代座で六代目嵐徳三郎を襲名する。甥の嵐寛寿郎が映画界で成功したのに刺激され、活動写真の世界に転向をはかる。
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