歌舞伎端役から剣戟スターへ
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「小崎政房」の記事における「歌舞伎端役から剣戟スターへ」の解説
1907年(明治40年)4月27日、京都市に生まれる。 1926年(大正15年)2月17日 - 同月23日、18歳のとき、歌舞伎俳優尾上 紋緑として、端役の郎党清瀬三四郎役で京都座の舞台を踏む。その後、映画俳優に転向し、帝国キネマ演芸に入社する。 1930年(昭和5年)5月31日、23歳のとき、結城 三重吉の名で、帝国キネマ長瀬撮影所で撮影した『我武者甚内羅一番槍』(原作・脚本山内英三、監督渡辺新太郎)に主演、同作が公開される。同年、結城 重三郎と改名、主演した『白粉首』(同年8月13日完成)をかわきりに、重三郎名義で4本に出演したところで、同年9月、長瀬撮影所が火事で全焼し焼失する。同社が松竹から借り受けた太秦撮影所(現在の東映京都撮影所)で11本に出演した。1931年(昭和6年)10月に同社は新興キネマに改組され、同年10月4日、河津清三郎主演の『三人の相馬大作』(原作直木三十五、監督押本七之輔)に出演し、同作は新興キネマ作品として公開された。新興キネマでは、10本に出演し、1932年(昭和7年)4月27日公開の中島宝三監督作品『享保旗本くづれ』を最後に新興キネマを去る。 同1932年に宝塚キネマを退社した俳優の羅門光三郎と原駒子が奈良県生駒郡南生駒村(現在の生駒市壱分町)に設立した「富国映画社」に合流、同社の設立の7作目の映画『渡世くづれ』に主演したが、同社は8本目の映画を撮影して解散した。翌年1933年(昭和8年)、俳優月形龍之介と映画監督志波西果の設立した朝日映画聯盟に参加、同年10月19日に公開された『海援隊快挙』に月形と共演したが、同プロダクションは本作を含めた2本で解散した。小崎は「剣戟俳優・結城重三郎」の名を捨て、関西を離れ、東京に移住、同年、角筈(現在の西新宿)の新宿ムーランルージュに入り、劇作家となる。
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