韓国人選手
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文需浩(2012 - 2015) 李承浩(2013 - 2015) 孫敏漢(2013 - 2015) 李恵践(2014 - 2015) 元東京ヤクルトスワローズ。 呉正福(2014 - 2015) 朴明桓(2014 - 2015) 高昌成(2013 - 2016) 李昊俊(2013 - 2017) 趙煐勲(2013 - 2017) 尹秉昊(2013 - 2018) 李鍾旭(2014 - 2018) 李炯範(2016 - 2018) 金鐘民(2017 - 2018) 崔俊蓆(2018) 孫時憲(2014 - 2019) 柳元相(2018 - 2019) 牟昌民(2013 - 2021) 姜倫求(2017 - 2021) 朴正洙(2020 - 2021) 文京賛(2020 - 2021) 羅成範(2012 - 2021)
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韓国人選手
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金在博(キム・ジェバク、在籍年度1982 - 1991) 元LGツインズ監督(2007 - 2009) 李光殷(イ・グァンウン、在籍年度1982 - 1991) MBC球団の創設メンバーで球団を代表した強打者。ポジションは主にサード、後にレフトを守ったこともある。1991年シーズンオフ、若返りを図った球団から金在博とともに引退勧告を受けた時、現役続行を選んで太平洋ドルフィンズに移籍した金在博と違って、引退を引き受けて1992年からコーチに就任。将来の監督候補のライバルだった金在博はこの件で球団との間に溝が生じて監督として古巣に戻るのに15年が掛かったのに対して、コーチとしてチームに残って2000年シーズン監督に昇格。球団初の生え抜き監督の栄光を手にした。しかし、同年のプレイオフで継投を間違って敗退すると、翌シーズン、開幕から9勝26敗の惨状の責任をとって5月途中で辞任した。現在は母校の延世大学の監督を勤めている。 金尚勲(キム・サンフン、在籍年度1984 - 1993) MBC時代は「ミスター青龍」と呼ばれ、LGになってからは初代「ミスターLG」の名を冠した好打者。88年.354の高打率で首位打者になる。1993年オフ、韓大化との交換トレードでヘテ・タイガースに移籍した。 金龍洙(キム・ヨンス、在籍年度1985 - 2000) 韓国プロ野球通算最多セーブおよびセーブポイント記録保持者。キャリア序盤は切れ味のあるスライターを武器にして「剃刀」のニックネームをとっていた。入団初年度は平凡な成績に終わったが、翌年抑えに転向すると開花。選手生活の後半はチームの事情によって先発と抑えを行き来しながらも両方で好成績を上げており、最多勝利投手になったこともある。通算成績は126勝89敗227セーブ、防御率2.98。いまだ、チームの通算最多勝利と最多セーブの両方の記録を持っている。佐々木主浩についでアジアで2人目で通算200セーブを突破して、個人通算100勝、200セーブの記録ははアジアではただ一人。この記録はメジャーリーグでも3人しか持っていない。現役時代につけていた背番号41はLGツインズ史上初の永久欠番となった。現役引退後はLGの投手コーチなどをつとめた。2010年5月より中央大学校野球部監督となったが、2012年11月、審判に金銭を渡した嫌疑で韓国アマチュア野球界から3年間の資格停止の処分を受けた。 鄭三欽(チョン・サムフム、在籍年度1985 - 1996) 宣銅烈は大学の同期で大学時代は彼の影に隠れて目立たなかった。プロ入り後、登板機会を得て実力を認められるようになった。しかし、自己主張がつよく、チームの首脳陣と確執を見せる事も多かった。成績も敗戦数が多かったが、チームの戦力が整ってくると勝ち数の方が上回るようになり、ローテーションの柱になる。1996年、球団初の100勝投手になるが、球威の低下によって球団から引退勧告を受ける。結局、この年限りで引退を表明、同球団のコーチに就任。現在は韓國富川(ブチョン)高校野球部の監督を務めている。キャリア初期の負け数の多さが響いて通算成績は106勝121敗47セーブと負け越した。ハンファの宋津宇(ソン・ジヌ)に抜かれるまでは、韓国プロ野球で通算最多敗戦の記録を持っていた。頭脳派として知られ、研究熱心でもあり、コーチとしてもコンピュターを用いた当時では新しい指導法を導入したりして後輩を育てあげる。このことで、1998年、韓国政府から新知識人に選ばれたこともある。 金兌源(キム・テウォン、在籍年度1986 - 1998) 入団当初は剛速球を放るピッチャーとして毎年期待されながら、度胸不足と制球難で伸び悩んでいた。いわゆる未完の大器の典型のような選手だった。1990年、白仁天監督が赴任して、同監督のスパルタ式トレーニングの下で急速に成長、その年18勝をあげて初優勝に貢献。以後、ローテーションの一角として働いた。1993年、サンバンウル・レイダース戦でノーヒット・ノーランを達成。チーム史上唯一のノーヒット・ノーラン記録者である。 盧燦曄(ノ・チャンヨプ、在籍年度1989 - 1997) MBC青龍の最後の新人で、1987年のシーズンオフにMBCから指名を受けたが、ソウルオリンピック出場のため、1年遅れて入団。新人の時から打線の主軸になった。鋭いバッティングが持ち味で「剣客」というニックネームがついた。しかし、1993年シーズン、頭を直撃したデッドボールの影響で視力に問題が生じ、その後の成績は降下の一途をたどる。これが引退を早める原因になった。 金東洙(キム・ドンス、在籍年度1990 - 1999) LGツインズ最初の新人として入団。球団側は支離滅裂としていたMBC時代末期のイメージの払拭のため、彼を球団を代表するスターとして前面に出そうとした。1990年、新人王を獲得でその期待に応えて、韓国球界を代表するキャッチャーに成長する。1999年シーズンオフ、FA宣言して、三星ライオンズに移籍。その後、SKワイバーンズ、現代ユニコーンズ、ヒーローズと渡り歩き、2009年に引退した。現在はネクセン・ヒーローズのバッテリーコーチを務めている。2009年現在、韓国プロ野球の野手では現役最年長、ピッチャーを含んでもハンファの宋津宇(ソン・ジヌ)に続いて2番目で、2009年シーズン現役で1軍試合の出場を果たし、野手としては実働20年を記録した最初の選手となった。 宋九洪(ソン・グホン、在籍年度1991 - 1997、2000) 1992年、球団史上初の年間20本塁打を記録して、7位に沈んだチームの中心打者として台頭。この年は、盗塁も20を記録して、俊足巧打のイメージを確立する。翌年の1993年は、リードオフとショートとしてチームを牽引して、3年ぶりのポストシーズン進出に貢献。しかし、1994年シーズンは兵役の問題で全シーズンを欠場、韓国シリーズ優勝の年にはチームと一緒にいられなかった。1995年にチームに復帰。闘志が前面に出るプレイでファンに愛されたが、柳志炫の入団でサードにコンバートされてからは、守備に精彩を欠いてエラーが続出。1997年のシーズンオフ、ヘテ・タイガースにトレード。サンバンウル・レイダースを経て、2000年シーズン古巣に復帰するが、その年限りで引退。現在はLGツインズの守備コーチを務めている。 韓大化(ハン・デファ、在籍年度1994 - 1995) 強打の三塁手として活躍した。 李尚勲(イ・サンフン、在籍年度1993 - 1997、2002 - 2003) 元中日ドラゴンズ。日本での登録名はサムソン・リー。 柳志炫(ユ・ジヒョン、在籍年度1994 - 2004) ショートとして金在博を彷彿する巧みな守備や俊足巧打、賢いプレーでファンの人気を集めた。1994年の新人王。2001年のシーズン後の年俸交渉で本人の希望額と球団側の提示額の差を埋めないまま、調停に持っていき、ここで勝利。韓国プロ野球史上初めて、年俸調停で選手が勝利する先例を残す。しかし、ここからこの件を快く思わなかった球団側の冷遇が始まり、出場機会が大幅に減少。野手陣の若返り策に出た球団の方針によって2004年シーズン後半からはほぼコーチ扱いされ、引退か移籍かの選択を迫られる。結局2004年シーズンを終えて正式に引退を表明、2005年シーズンからコーチに就任。2006年シーズンの前は、コーチングスタッフとしてワールドベースボールクラシックに参加。2006年シーズン後退団し、アメリカにコーチ研修に赴く。帰国後LGのコーチに復帰。2021年よりLGの監督となる。 金宰炫(キム・ジェヒョン、在籍年度1994 - 2004) 柳志炫、徐容彬とともに1994年の新人旋風の中心の一人。パワーヒッターとしての片鱗を見せ、新人ながら21本塁打を記録。LGツインズとOBベアーズは、広い蚕室球場をホームに持って、1992年になってようやく年間20本塁打を超えた打者を輩出した。こういう状況の中で、高卒間もない新人として年間20ホームランを軽く超えて、長距離砲の候補として期待を集める。しかし、その後は長打力はなかなか成長を見せず、年間20ホームラン以上を記録したのは新人の年を含めて2度しかない。その反面、打率の方は2000年から6年連続3割を記録。2002年シーズン途中、「大腿骨頭無血性壊死」という奇病を診断され、選手生命の危機に立たされる。しかし、これを承知で韓国シリーズに強行出場、代打で活躍し、ファンに強い印象を残す。手術を経て、無事チームに復帰したものの、それからの活躍の可能性に疑いを持った球団側は再発の場合を想定した裏面契約を迫り、球団に不信感を持つようになる。この件を根にもって、2003年シーズンオフ、FA宣言して、SKワイバーンズに移籍。チームを代表するスター選手に対する球団側の粗末な扱いにファンからの批判の嵐が起こされた。SKでは3度の韓国シリーズ優勝に貢献し、2010年シーズン終了後に引退。2011年は米国のロサンゼルス・ドジャース傘下のA級マイナーリーグに属するグレートレーク・ルーンス、2012年は日本・読売ジャイアンツでコーチ研修を受けた。2013年からスポーツ専門ケーブルテレビ局の解説者になった。 徐容彬(ソ・ヨンビン、在籍年度1994 - 2006) 2014年は中日ドラゴンズ打撃コーチ補佐だった。 趙寅成(チョ・インソン、在籍年度1998 - 2011) 2000年ごろから約10年にわたって強肩強打の捕手として活躍した。2006年WBC(ワールドベースボールクラシック)韓国代表。2009年には試合中に観客の前で沈秀昶とマウンド付近で口論し、シーズンの残り試合をすべて2軍で送ったこともあった。2011年オフ、FA(フリーエージェント)を行使しSKワイバーンズに移籍。 朴明桓(パク・ミョンファン、在籍年度2007 - 2012) 2006年オフ、FA(フリーエージェント)で斗山ベアーズから移籍。2007年に10勝をあげた以外は故障で苦しみ1軍での登板数も少なく、大きく期待を裏切り2012年限りで退団。 李大炯(イ・デヒョン、在籍年度2003 - 2013) 2007年から2010年まで4年連続盗塁王の快足の選手。2013年オフにFAを行使してKIAタイガースに移籍。 李晋暎(イ・ジンヨン、在籍年度2009 - 2015) 国民的右翼手というあだ名を持つ選手。KTウィズから特別指名を受けて退団。 李炳圭(イ・ビョンギュ、在籍年度1997 - 2006、2010 - 2016) 元中日ドラゴンズ。現役時代に背負った背番号9はチームの永久欠番。 鄭成勲(チョン・ソンフン、在籍年度2009 - 2017) ウリ・ヒーローズからFAで加入し、史上7人目の通算2000本安打を達成した。 奉重根(ポン・ジュングン、在籍年度2007 - 2018) MLBでも活躍し、LGでは当初先発として起用された後に抑えに転向。 朴龍澤(パク・ヨンテク、在籍年度2002 - 2020) 2020年、KBOリーグ史上初の個人通算2500安打を達成。現役19年間、LGのみに所属したフランチャイズスターだった。 鄭根宇(チョン・グヌ、在籍年度2020) 00年代を代表する二塁手。現役最後の一年をLGで過ごした。
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韓国人選手
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「ハンファ・イーグルス」の記事における「韓国人選手」の解説
柳承安(ユ・スンアン、在籍1986年 - 1991年) 球団創設時のメンバー。2003年 - 2004年はチームの監督も務める。2010年より警察庁野球団監督。息子はプロ野球選手の柳元相。 韓禧敏(ハン・ヒミン、在籍1986年 - 1992年) 球団創設時からローテーションを支えた下手投げ投手。1994年 - 1995年の2年間は、初の韓国人選手として台湾プロ野球・俊国ベアーズでもプレー。 李相君(イ・サングン、在籍1986年 - 1996年、1999年 - 2001年) 球団創設期からチームを支えてきたエース投手。一旦引退して1997年から投手コーチを務めたが、通算100勝に未練を断ち切れず1999年に現役復帰。そのおかげで、選手としてチームの優勝を経験し、願望だった個人通算100勝も達成できた。2001年シーズンを最後に再び現役引退し、2017年シーズン途中から終了まで監督代行を務め、フロント入りした。 李康敦(イ・ガンドン、在籍1986年 - 1997年) 草創期の打線の中軸を努めた好打者。積極的なスイングで好球必打を信条とし、それでも高打率を残すなど、初球打ちの達人と言われた。 姜正吉(カン・ジョンギル、在籍1986年 - 1995年) 草創期、ダイナマイト打線と呼ばれたチーム打線で5番打者を任せられ、堅実な打撃で貢献した好打者。 李政勲(イ・ジョンフン、在籍1987年 - 1994年) 1987年の新人王。闘志溢れるプレイでファンに愛された。現役当時ダイナマイト打線と呼ばれたチーム打線のリードオフマンとして1991-1992年2年連続首位打者のタイトルを獲得。以降、韓国プロ野球で2年連続で首位打者をタイトルを獲得した打者は2009年まで出なかった(2010、2011年と李大浩が2年連続首位打者を獲得)。現在は親会社のハンファグループ傘下の天安北一高等学校の野球部監督を務めている。2012年には第25回AAA世界野球選手権大会の韓国代表監督も務める。 張鍾熏(チャン・ジョンフン、在籍1987年 - 2005年) テスト生から入団して、引退する時は韓国プロ野球の個人通算最多本塁打記録を保持した。背番号35はチームの永久欠番となる。 韓容悳(ハン・ヨンドク、在籍1988年 - 2004年) 東亜大学中退後、張鍾熏同様テスト生として入団して、1990年代中盤はローテーションのエースにまで成長した。 入団時の背番号は、引退する時に40勝できればという願望を込めて40番を選んだが、引退した時はその3倍に上る120勝を超えた。 引退後はスカウトやコーチを歴任し、2012年8月28日、韓大化監督の辞任により同年10月初旬までハンファの監督代行をつとめた。2018年よりハンファの監督として指揮を執った。 宋津宇(ソン・ジヌ、在籍1989年 - 2009年) 韓国で唯一の200勝記録を持つ大投手。 姜錫千(カン・ソクチョン、在籍1989年 - 2003年) 三塁手のポジションで堅実なプレイを見せ、好打者が並んだチーム打線を完成させた。 鄭珉哲(チョン・ミンチョル、在籍1992年 - 1999年、2002年 - 2009年) 元読売ジャイアンツ。 具臺晟(ク・デソン、在籍1993年 - 2000年、2006年 - 2010年) 元オリックス・ブルーウェーブ、ニューヨーク・メッツ。 盧長震(ノ・ジャンジン、在籍1993年 - 1998年) 大きな期待を受けて入団するが素行不良が目立ち、三星にトレードされる。 李栄雨(イ・ヨンウ、在籍1996年 - 2010年) 1999年の優勝に貢献した外野手。 文東煥(ムン・ドンファン、在籍2004年 - 2009年) 4年間先発ローテーションの一角を担った。 趙成珉(チョ・ソンミン、在籍2005年 - 2007年) 元読売ジャイアンツ。2012年に事故で死亡した。 金敏宰(キム・ミンジェ、在籍2006年 - 2009年) 2度のFAで3チームを渡り歩いた内野手。 李杋浩(イ・ボムホ、在籍2000年 - 2009年) 最終所属起亜タイガース。日本国の福岡ソフトバンクホークスにも在籍した。 柳賢振(リュ・ヒョンジン、在籍2006年 - 2012年) 現トロント・ブルージェイズ。新人時代にMVPを受賞した。 張盛好(チャン・ソンホ、在籍2010年 - 2012年) 史上最年少で韓国プロ野球史上3人目となる2000本安打を達成したレジェンド。 朴賛浩(パク・チャンホ、在籍2012年) 韓国人初のメジャーリーガー。現役最後の1年をハンファで過ごした。 李鍾煥(イ・ジョンファン、在籍2015年 - 2017年) 大型トレードで入団するもほとんど戦力にならず、3年で解雇される。 裵英洙(ペ・ヨンス、在籍2015年 - 2018年) 最終所属斗山ベアーズ。2015年にFAで入団し、主に先発として活躍した。2018年で契約が切れたことで自由契約を選び斗山へ移籍。 朴正眞(パク・チョンジン、在籍1999年 - 2018年) プロ入りから引退までハンファ一筋のフランチャイズプレーヤー。 金泰均(キム・テギュン、在籍2001年 - 2009年、2012年 - 2020年) 長らく打線の中軸として活躍してきた4番打者。 宋光敏(ソン・グァンミン、在籍2006年 - 2020年) カリスマと称えられた主戦三塁手。2010年代後半に活躍した。 呉先真(オ・ソンジン、在籍2008年 - 2021年) 守備力を武器に活躍した二塁手兼遊撃手。 鄭寅煜(チョン・イヌク、在籍2021年) 三星から先発を期待され入団するも1年で解雇される。 鄭振浩(チョン・ジノ、在籍2020年 - 2021年) 2次ドラフトで斗山から入団するも2年で解雇される。
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