1999年の優勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 14:23 UTC 版)
「ティム・ダンカン」の記事における「1999年の優勝」の解説
ダンカンにとってNBA2年目の1998-99シーズンはロックアウト発生により開幕が2月にまでずれ込み、レギュラーシーズンが通常の82試合から50試合に短縮されるという異例の事態から始まった。スパーズは開幕から6勝8敗と成績が伸び悩み、ポポヴィッチHCは非難の矢面に立たされたが、彼らのヘッドコーチをツインタワーが救い、以降の試合を31勝5敗、勝率.861という驚異的な成績で切り抜け、最終的には37勝13敗とした。この頃にはほぼ対等だったツインタワーの力関係に変化が見られ、33歳となっていたロビンソンはチームの主役を彼より一回りも若いダンカンに譲り、自らは積極的にダンカンのサポート役に回った。ダンカンは平均得点・リバウンド・ブロックでチーム1位となる21.7得点11.4リバウンド2.4アシスト2.5ブロックの成績を残し、オールNBA1stチームとオールディフェンシブ1stチームに選出される。プレーオフ1回戦ではダンカンと同い年ながらNBAでは2年先輩のケビン・ガーネットが率いるミネソタ・ティンバーウルブズと対戦し、3勝1敗で降すと、カンファレンス準決勝ではシャキール・オニール、コービー・ブライアント擁するロサンゼルス・レイカーズを4戦全勝で一蹴。カンファレンス決勝でも大学時代からのライバルであるラシード・ウォレースが所属するポートランド・トレイルブレイザーズをやはり4戦全勝で降し、ついにチーム史上初のNBAファイナル進出を果たす。 ファイナルでは第8シードから奇跡的なファイナル進出を果たしたニューヨーク・ニックスと対決。ニックスの顔はデビッド・ロビンソンと共にリーグトップセンターの一角を成したパトリック・ユーイングだったが、ユーイングは故障でファイナルを全休。戦前から大黒柱不在のニックスに対し、ツインタワー擁するスパーズが有利であろうと予想され、現実もその通りとなった。初のファイナルという大舞台に第1戦前半のダンカンは僅か4得点2リバウンドに終わったが、後半に入ると復調し、終わってみれば33得点16リバウンドでチームを勝利に導いていた。ニックスにもベテランのラリー・ジョンソンや将来有望なカート・トーマス、マーカス・キャンビーらが居たが、ツインタワー相手には力不足で、インサイドの主導権は完全にスパーズが握り、第2戦も勝利して2連勝を飾った。このシリーズにはヴァージン諸島からも大応援団が駆けつけており、スパーズのホーム・アリーナ、アラモドームの客席は満杯となり、第2戦で記録された観客動員数39,554人はNBA新記録となった。第3戦ではニックスのガード陣、ラトレル・スプリーウェルやアラン・ヒューストンの活躍でスパーズは不覚を取ってしまうものの、第4戦ではツインタワーがニックスを圧倒。ダンカンとロビンソンの2人だけでニックスの総リバウンド数を上回る35リバウンドをあげ、優勝に王手を掛けた。第5戦ではダンカンとニックスのスプリーウェルの一騎討ちとなり、試合の行方は最後までもつれた。そして76‐77とスパーズが1点のビハインドを抱えたまま残り1分を切り、逆転を狙うスパーズはダンカンにボールを託し、そしてニックスもダンカンにダブルチームを仕掛けた。ダンカンはすぐにチームメートのショーン・エリオットにパスを送り、そしてエリオットはコーナーサイドでフリーで待つエイブリー・ジョンソンにパス。ジョンソンのジャンプシュートが決まり、スパーズに劇的な逆転勝利をもたらした。シリーズ4勝目をあげたスパーズがチーム史上初の、そしてロビンソンにとってもNBA10年目の節目の年に初めての優勝を果たし、そしてダンカンはNBA入り2年目にして最初のチャンピオンリングを手に入れると共に、シリーズ平均27.4得点14.0リバウンドの成績でチームを優勝に導いたとして、ファイナルMVPの称号も手に入れた。2年目でのファイナルMVP受賞はカリーム・アブドゥル=ジャバーと並ぶ歴代2番目の速さである(マジック・ジョンソンはルーキーイヤーに受賞)。
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