2004年シーズン
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「フェラーリ・F2004」の記事における「2004年シーズン」の解説
2004年1月26日に、チームの本拠地であるイタリア・マラネロで発表された。その後、1月31日にミハエル・シューマッハによってフィオラノサーキットでシェイクダウンが行われた。シューマッハ自身は、新車発表会で「2004年シーズンはすごくタフなシーズンになる」と、述べていた。しかし、実際開幕してみると2002年の再現であった。シューマッハは開幕から第5戦まで5連勝。第6戦モナコGPではトップ走行中に追突されてクラッシュ・リタイヤとなってしまったが、第7戦から7連勝。ルーベンス・バリチェロも第15, 16戦と連勝した。両ドライバーは1回ずつリタイヤしたが、両方とも他車と絡んでクラッシュでメカニカルトラブルはなかったというほど信頼性に優れたマシンだった。このシーズンは15勝10PPと大活躍をした。 新型パーツの投入も絶え間なく継続された。第4戦サンマリノGPでは、コンパクトなエンジンカウルを投入。同時にミッドウイングも小型化された。当初はサイドポンツーンの排熱にルーバーを用いていたが、第6戦モナコGP以降はチムニーダクト(煙突)に変更。これは空力面についても意識しており、路面に対して斜め上を向いている。フロントウイングは、第12戦ドイツGPで中央部分を大きく湾曲させた新型が投入された。 実戦では、ロス・ブラウンによる効果的な作戦が行われた。フランスGPではピットストップを4回もすることで走行時の燃料を少なくしてスピードを上げることができ、最終的にポールシッターのフェルナンド・アロンソを逆転するなど、ブラウンらしさの現れたレースだった。 このベルギーGPで、シューマッハは自身7度目のドライバーズタイトル獲得を決めた。このGPでは、気温がそれほど上昇しなかったため、チムニーがコースの内側となる右側のみ装着されていた。
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2004年シーズン
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「夜はこれから!ホークス派宣言」の記事における「2004年シーズン」の解説
ここで、「ホークス派宣言」に衣替え。放送時間は基本的には17:50~22:00。メインパーソナリティは月・火・金は宮本けいすけ、水・木は和田安生。 17:50からホークスの事前情報を伝え、17:57から「KBCジャンボナイター」、ナイター終了後は再びスタジオに戻って試合結果に関しての情報、スポーツ情報、そしてリスナーからの試合の感想を伝える。ただし、中継が22:00を超えた場合は、中継終了後5分ほどスポーツ情報・ニュース・天気を放送した後、HOT'n HOT お気に入りに追加!(2005年以降はニッポン全国ラジベガス)に飛び乗りとなる。 試合を中継しない時は、宮本、和田コンビで4時間ぶっ続けで放送。そのときの内容は、 パ・リーグのチーム状態 ホークスカルトクイズ オリンピック特集 といったものをやっていたが、1リーグ制問題が起こったときは、2回に分けてリスナー、識者からの声を寄せていた。
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2004年シーズン
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「ジョーダン・EJ14」の記事における「2004年シーズン」の解説
ドライバーはザウバーから加入したニック・ハイドフェルドと新人のジョルジオ・パンターノ。パンターノがチームを離脱すると、テストドライバーのティモ・グロックが代役を務めた。 第8戦カナダGPではウィリアムズとトヨタの計4台のマシンがブレーキダクトの規定違反でレース後に失格となり、グロック7位、ハイドフェルド8位とダブル入賞を果たした(グロックはF1デビュー戦での入賞)。 最終的に獲得ポイントは5で、コンストラクターズランキング9位だった。
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2004年シーズン
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「ロドニー・ハリソン」の記事における「2004年シーズン」の解説
プロボウルCBであるタイ・ローがシーズン絶望となるなどCB陣に怪我人が続出したチームの中でLBテディ・ブルースキ等と共にシーズン全試合に出場し、チームトップの141タックルに加え3サック2INTを記録する活躍でオールプロ2ndチームに選出された。開幕から6連勝を飾りNFL記録となる21連勝を果たすなど前シーズンからの好調を維持したチームは14勝2敗で2年連続の地区優勝を果たし、AFC第2シードでプレーオフに進出した。ディビジョナル・プレーオフでは昨年のプレーオフに続いてインディアナポリス・コルツと対戦し、ハリソンはチームトップの11タックルに加え1ファンブルフォース、さらに試合を決定付けるINTを決めるなどの活躍を見せた。ハリソンが奪った2つのターンオーバーを含む計3つのターンオーバーを奪ったペイトリオッツはQBペイトン・マニング率いるコルツのハイパーオフェンスをわずか3点に抑え20-3で勝利した。続くAFCチャンピオンシップゲームのピッツバーグ・スティーラーズ戦ではチームトップの9タックルに加え、第2Qにはベン・ロスリスバーガーのパスをINTすると87ヤードのリターンTDを決めた。前半で24-3と差をつけたペイトリオッツは後半もリードを保ち、リーグ最小失点のスティーラーズを41-27で破った。フィラデルフィア・イーグルスとの対戦となった第39回スーパーボウルでは試合に終止符を打つINTを決めるなど7タックル1サック2INTとMVP級の活躍をみせ、24-21の勝利に貢献した。ペイトリオッツはスーパーボウル連覇に加え、過去4年で3度目のスーパーボウル制覇を成し遂げたことから"Patriots Dynasty"、王朝を築きあげたといわれた。
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2004年シーズン
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「大塚製薬サッカー部」の記事における「2004年シーズン」の解説
第6回日本フットボールリーグは、後期第6節まで18勝3分、前年からの無敗記録を33試合に伸ばし(補足3.)、独走態勢を築いた。リーグ戦が中断した8月にはサウジアラビアでの国際親善大会、「アブゥドラ・アルファイサル・プリンスカップ」に田中監督と4人の選手が参加した。後期第10節、10月24日に豊田市運動公園陸上競技場で行われたデンソー戦で11-0で圧勝した段階で、Jリーグ ディビジョン2(J2)参入の成績面での条件である2位以内を確定させた。 11月21日にHonda FCを破り、横浜FC(1999年-2000年)、Honda FC(2001年-2002年)に次ぐ史上3チーム目のJFL2連覇を達成した。 12月6日、Jリーグ理事会で大塚製薬サッカー部のJ2参入が承認され、四国初のJリーグクラブが誕生した。JFLで21ゴールを挙げて得点王になった林が最優秀選手に選ばれ、得点ランク2位(20得点)の大島康明とベストイレブンでFWの2人を独占した。他にも田中が最優秀監督、ベストイレブンにはDFで谷池洋平と石川裕司、MFで片岡と筒井紀章の計6人が選ばれた。 当初単独チームでJリーグ入りを目指していた「徳島FCカバロス2002」は徳島ヴォルティスに移譲し、第1種のアマチュアチーム「徳島ヴォルティス・カバロス」に移行した(その後カバロスは、2006年四国リーグ昇格を機に「徳島ヴォルティス・アマチュア」に、2008年には「徳島ヴォルティス・セカンド」と名称を変更)。主として将来のプロ入りや国民体育大会出場を目指すアマチュア選手によって構成し、プロチームとユースチームの中間的な位置づけとなった。その後、四国リーグ昇格2年目から優勝2回・2位2回と四国リーグを代表するチームとなったものの、クラブの財政的な問題により2010年シーズンをもって休部となった。 また、大塚製薬の社員選手は2006年に進路選択を迫られ、大場は現役を引退して社業に専念、片岡は徳島とプロ選手契約を結んで大塚製薬を退社、林は選手を引退して徳島のユースコーチに就任など、それぞれの道を歩んだ。
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2004年シーズン
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「トム・ブレイディ」の記事における「2004年シーズン」の解説
開幕から第8週でスティーラーズに敗れるまで6連勝を果たし、NFL記録となる21連勝(プレーオフを含む)を達成した。ブレイディはパス3,692ヤード・28TD・レイティング92.6を記録する活躍で、2001年シーズン以来2度目のプロボウルに選出された。チームは14勝2敗で2年連続の地区優勝を果たし、第2シードでプレーオフに進出した。初戦のディビジョナル・プレーオフでは、この年リーグ最多得点を記録したマニング率いるコルツをわずか3点に抑えて完勝(20-3)すると、続くAFCチャンピオンシップゲームではレギュラーシーズンで連勝記録を止められたスティーラーズと再戦し、チームは守備陣がスティーラーズの大物新人QBベン・ロスリスバーガーから3つのINTを奪うと、ブレイディがQBレイティング130.5を記録する活躍を見せ、この年リーグ最少失点を記録したスティーラーズから41点を奪う圧勝(41-27)をおさめた。 フィラデルフィア・イーグルスとの対戦となった第39回スーパーボウルでは、同大会史上初となる同点での第4Qを迎える(14-14)が、そこからペイトリオッツが10点のリードを奪うと、最後はイーグルスの反撃をしのぎきって24-21で勝利をおさめた。MVPはスーパーボウル史上最多タイ(当時)となる11キャッチを記録したWRディオン・ブランチが受賞したが、ブレイディは236ヤード・2TDを投じ、MVPを受賞した過去2回のスーパーボウルよりも高いQBレイティングを記録した。 ブレイディはテリー・ブラッドショー、ジョー・モンタナ、トロイ・エイクマンに次いで、スーパーボウルを3度制覇したNFL史上4人目(4人中最年少)のQBとなった。なお、キャリア最初の5年間で3度のリーグ制覇を成し遂げたQBはNFL史上ブレイディただ一人である。スーパーボウル連覇の偉業に加え、プレーオフ無敗のまま4年で3度のスーパーボウル制覇を成し遂げたブレイディは、"Patriots Dynasty"(ペイトリオッツ王朝)の象徴としてNFLに一時代を築き上げた。
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2004年シーズン
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「ニューイングランド・ペイトリオッツ」の記事における「2004年シーズン」の解説
ホームで行われた開幕戦では2003年シーズンのチャンピオン・バナーが掲げられるセレモニーが催されたのち、昨シーズンのチャンピオンシップゲームで戦ったインディアナポリス・コルツと対戦した。第4Q残り48秒で3点リードのペイトリオッツは追い上げるコルツにFGでの3点がほぼ確実な自陣17ヤード地点まで攻め込まれる。しかし3rdダウンでウィリー・マクギネストがフリーでマニングをサックし29ヤード地点まで後退させると、最後はKマイク・ヴァンダージャットの48ヤードFGが外れ27-24で接戦を制した。その後開幕から第8週にピッツバーグ・スティーラーズに敗れるまで6連勝を果たし、前シーズンから続く連勝記録(ポストシーズンを含む)を21としてNFL新記録を樹立した。40-22で勝利した第9週のセントルイス・ラムズ戦では、CBアサンテ・サミュエルが怪我で一時試合から下がるとWRトロイ・ブラウンがCBとして出場した。CB陣に怪我人が続出していたチームの苦肉の策であったが、ブラウンは期待にこたえシーズンでチーム2位タイとなる3つのINTを記録した。さらにこの試合ではLBマイク・ブレイベルがTDレシーブを決め、Kアダム・ビナティエリがFG隊形からトロイ・ブラウンにTDパスを決めている。チームはレギュラーシーズンを14勝2敗で終え、第2シードでプレーオフに進出した。 ディビジョナル・プレーオフでは昨年のプレーオフに続きコルツと対戦した。当時のNFL記録である49TDパスを記録したQBマニング率いるコルツのハイパーオフェンスに対し、ペイトリオッツはDEリチャード・シーモア、エースCBのタイ・ローと2番手CBタイローン・プールなど主力を欠いていたにもかかわらず攻守に渡ってコルツを圧倒して20-3で勝利をおさめた。この試合はコルツがTDを奪えなかったシーズン唯一の試合となった。続くAFCチャンピオンシップ・ゲームでは敵地ハインツ・フィールドでレギュラーシーズンで敗れたピッツバーグ・スティーラーズと対戦した。ペイトリオッツはスティラーズのファーストドライブでINTを奪いFGで先制すると、次のドライブでもターンオーバーを奪い早々に主導権を握る。ブレイディが安定したプレーでオフェンスを展開すると、WRディオン・ブランチがランとパスの双方でビッグプレーを、Sロドニー・ハリソンがインターセプト・リターンTDを決めるなどしてリーグ最少失点のディフェンスを誇るスティーラーズから41点を奪い41-27で勝利した。41失点はスティーラーズのシーズン最多失点となった。そしてディフェンディング・チャンピオンとして臨んだ第39回スーパーボウルでは、QBドノバン・マクナブやWRテレル・オーウェンスを擁するNFCチャンピオンのフィラデルフィア・イーグルスから4つのターンオーバーを奪うなどして24-21で勝利し、スーパーボウル連覇を達成した。 連覇という偉業に加え、4年間で3度のスーパーボウル制覇を成し遂げたことでチームは「Patriots Dynasty」(ペイトリオッツ王朝)を築きあげたと言われた。2002年はプレーオフ出場を逃しているため、ペイトリオッツはポストシーズンで一度も負けることなく4年で3度のスーパーボウル制覇を成し遂げた。リーグで最も得点をあげたオフェンスをわずか3点に抑え、リーグで最も失点が少なかったチームから41点をあげ、4年間で3度目のスーパーボウル制覇を達成したこのポストシーズンでの一連のパフォーマンスは00年代のペイトリオッツの最盛期として評価され、NFL.comから「00年代最高のチーム」に選ばれている。
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2004年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/17 06:49 UTC 版)
「ミナルディ・PS04B」の記事における「2004年シーズン」の解説
PS03に多少の改良を加えたようなマシンではポイント獲得はとても難しいことだった。しかし、大混戦となった第9戦アメリカGPでミナルディにとって2002年オーストラリアGP以来約2年ぶりのポイントを獲得した。しかし、それ以外のレースではほとんどテールエンド争いに終始し、アメリカGPでの1ポイントの獲得にとどまった。
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2004年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/07 02:35 UTC 版)
「ひまつぶし軍団」の記事における「2004年シーズン」の解説
約半年のブランクの後、2004年10月2日に復活。土曜日の22:30から22:55までの放送で、副団長としてストリートパフォーマーのてのひらが加わる。 今回は団長がその回で一番気に入ったネタを投稿してくれた人(ヒマVP)に団長からのプレゼントを贈ることになった。
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2004年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/05 14:36 UTC 版)
「ルノー・R24」の記事における「2004年シーズン」の解説
ドライバーは前年に引き続いてヤルノ・トゥルーリとフェルナンド・アロンソ。前年にワークスとしての20年ぶりの優勝を果たしたルノーだったが、2004年はフェラーリのミハエル・シューマッハが独走し、タイトル獲得の可能性はシーズン序盤で早々に潰えた。その結果、シーズンを通じてB・A・Rとコンストラクターズ2位を争うことになる。 第6戦モナコGPではトゥルーリが自身初のポールポジションからそのまま初優勝し、ルノーチームとしても初のモナコ制覇(ルノーエンジンとしては9年ぶり2勝目)となる1勝を挙げるが、第10戦フランスGPでは最終ラップの最終シケインでルーベンス・バリチェロにかわされ表彰台を逃してしまう。すると、このルノー母国GPでの失態にフラビオ・ブリアトーレが激怒。トゥルーリは9月に2005年からのトヨタ移籍を発表するものの、チームとの関係は悪化の一途をたどり、第15戦イタリアGPを最後にチームを離脱するという事態にまで発展した。 そのため、チームはトゥルーリの後任として前年B・A・Rを離脱してシートを失っていた1997年のワールドチャンピオン、ジャック・ヴィルヌーヴを起用。対B・A・Rの切り札として終盤3戦に出走したものの、約1年間のブランクは大きく、ポイント獲得には至らなかった。 アロンソは優勝こそ果たせなかったものの、フェラーリが席巻するシーズンで4度の表彰台(最高位2位)を含む計12回の入賞を記録。チームはフェラーリ、B・A・Rに次ぐ、コンストラクターズ・ランキング3位の座を獲得した。
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2004年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/22 02:02 UTC 版)
「ザウバー・C23」の記事における「2004年シーズン」の解説
フェラーリの威光にあやかり、成績も今までのザウバーよりは良くなるのではないかといわれたが、開幕までにパワーステアリングが間に合わず、しかもブリヂストンの新型タイヤのグリップが良く、ステアリングがさらに重くなり、ドライバーに負担が大きくなってしまったため、例年とさほど変わらない出だしだった。ちなみに10チーム中唯一の未装着マシンであった。第2戦マレーシアGPではフェリペ・マッサがあまりのステアリングの重さに耐えきれずコースアウトする有り様だった。 第3戦バーレーンGPでようやくパワーステアリングが投入され、シーズン中盤の第10戦フランスGPに翼端付近に段差がついたフェラーリ F2004に似た新型フロントウイングが、第11戦イギリスGPによりコンパクトになった新型エンジンカウルが投入された。これはラジエターをV字型にすることで達成された。ドライバーのジャンカルロ・フィジケラも「以前よりも楽にポイントがとれるようになった」とコメントしているように、大幅な進歩を遂げた。毎年のようにシーズン終盤での失速がよく言われていたが、2004年シーズンは終盤まで力強い走りを披露した。
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