1999年-2000年
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「IBM Systems Director」の記事における「1999年-2000年」の解説
これらの別々の目的で開発された管理ツール群を統一するため、IBMは前述のTivoliのTivoli IT DirectorをベースにしたNetfinity Director with UM Servicesを新製品として開発することを決め、Netfinity Manager,UMS,RDMはこの新製品へ統合されることとなった。これがIBM Systems Directorに繋がる直接の原型となっている。Netfinity ManagerとUMSの機能の中で、クライアントPCとサーバに共通して必要となる管理機能はNetfinity Director with UM Services本体で提供されており、サーバのみで必要になる管理機能とクライアントPCのみで必要になる管理機能はそれぞれ、Netfinity Director with UM Servicesへのアドオンソフトウェア(UM SERVER EXTENSIONS/ UM DESKTOP EXTENSIONS/ RDM(Remote Deployment Manager))として提供され、利用者は管理対象となる環境や要件に応じて、必要とする管理機能を選択できるようになった。 Netfinity Director with UM Servicesが発表された当初(1999年)はライセンスキー変更のみで日本チボリシステムズが提供するTivoli IT Directorへのアップグレードが可能であることなど、Tivoli社からTivoli IT Directorからソフトウェア配布機能などを省略したサブセットの提供を受け、同製品にIBMサーバ/IBM PC/Thinkpadの管理機能を追加した製品であった。しかし、まもなくTivoli社はワークグループ管理製品に関しての戦略を転換し,2000年にはTivoli IT Directorの製品開発と提供を終息したため、IBMが製品を引き継ぐ形で開発と提供を行っていた。
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1999年 - 2000年(JFL)
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「横浜FC」の記事における「1999年 - 2000年(JFL)」の解説
1999年 「横浜フリューゲルス」も参照 1998年シーズンを以て横浜フリューゲルス(横浜F)が横浜マリノス(横浜M)に吸収合併されることが決定したことを受けて、横浜フリューゲルスのサポーター有志によって横浜FCの運営会社となる株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜フリエSC)が12月25日に設立された。 1999年3月、日本サッカー協会により日本フットボールリーグ(JFL)に準会員での加盟が承認された ゼネラルマネージャー(GM)に奥寺康彦、監督にピエール・リトバルスキー、コーチに阪倉裕二が就任。また、パベル・ジェハークなど元Jリーガー22人と選手契約した。4月25日に横浜国際総合競技場でジヤトコと初の公式戦(JFL第2節)を行った(引き分け)。第3節(5月3日)の水戸ホーリーホック戦で初勝利を収めた。JFLリーグ戦は18勝3分3敗の成績でJFLの初代優勝チームとなった。天皇杯は、3回戦でV川崎に敗退。 2000年 2000年、JFLの正会員となった。Honda FCから水原大樹や田島宏晃を獲得。リーグ戦は後期第7節で国士舘大学を破り、Jリーグ加盟条件の2位以内が確定。後期第8節で静岡産業大学に勝利して2年連続のJFL優勝を決めた。シーズン終了後、2001年からのJリーグ加盟が承認され、J2参加が決まった。
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1999年 - 2000年
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「棚橋弘至」の記事における「1999年 - 2000年」の解説
肉体的にほぼ完成されていた棚橋は入寮から半年後の10月10日、後楽園ホール大会にて真壁伸也(現:真壁刀義)を相手にデビュー。試合は6分55秒、逆エビ固めに敗れた。後にデビュー戦について棚橋は「自分自身より(対戦相手の)真壁さんの先輩としてのすごさ」が印象的だったことを語っており、プロレスラーはデビュー戦こそが本当のスタートであることを改めて実感した。同月19日、福岡国際センター大会のデビュー3戦目で井上亘を相手に逆エビ固めでプロ入り初勝利を収めた。12月23日の選手会主催興行では、新日ジュニアのトップ戦線で活躍する高岩竜一とシングルマッチで対戦した。 2000年に入り、ヤングライオンとしてパワーを生かした勢いのある攻撃を身上に前座戦線を賑やかせる一方、メキシコのトップ戦線で活躍するネグロ・カサスから勝利を収める活躍を見せて勢いに乗っていたが、9月9日栃木大会にて試合中に左手中手骨骨折を負い長期欠場へと突入した。
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1999年 - 2000年
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「メフィスト賞」の記事における「1999年 - 2000年」の解説
もともとミステリに限った賞ではなかったが、1999年7月の第12回受賞作霧舎巧『ドッペルゲンガー宮 《あかずの扉》研究会流氷館へ』以来、殊能将之(第13回)、古処誠二(第14回)、氷川透(第15回)、黒田研二(第16回)、古泉迦十(第17回)、石崎幸二(第18回)と連続して本格ミステリの書き手が集まった。
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