サンフランシスコ・ジャイアンツ時代(1959年 - 1973年)
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「ウィリー・マッコビー」の記事における「サンフランシスコ・ジャイアンツ時代(1959年 - 1973年)」の解説
ジャイアンツでのデビュー戦は1959年7月30日の対フィラデルフィア・フィリーズ戦で、のちに殿堂入りするロビン・ロバーツを相手に、4打数4安打、単打2本と三塁打2本を打った。この年は52試合に出場し、打率.354、13本塁打を記録して、ナショナルリーグ新人王に選出された。 この後、1960年代はチームメイトであるウィリー・メイズとともに「MM砲」、またはフアン・マリシャルを含めて「3M」としてジャイアンツを引っ張った。キャリアハイの成績を収めた1969年は、打率.320、45本塁打、126打点の好成績で、同年のナショナルリーグMVPを受賞した。 また、1966年9月16日には、推定飛距離が500フィート(約152.4メートル)の本塁打を放ったとされる。この飛距離は、1966年から1999年までの39年間、ジャイアンツが本拠地として使用したキャンドルスティック・パークでの史上最長の本塁打だった。
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サンフランシスコ・ジャイアンツ時代
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「村上雅則」の記事における「サンフランシスコ・ジャイアンツ時代」の解説
9月1日に村上はメジャーの選手に紹介されてニューヨーク万博を見に行った後、会場の隣にあるメッツの本拠地シェイ・スタジアムへ行ったが、日本の球場よりも綺麗で、前日まで板塀の薄暗い球場で試合をしていたためか、出来たての球場が本当に美しく思えた。練習していた村上はアンダーシャツの色がジャイアンツカラーと違ったほか、その色がライバルのドジャースカラーで突然叱られてしまったが、村上はすぐに袖を切りグランドに飛んで出て練習をしていると、球団職員が村上を呼びに来て、契約書にサインをするように言った。村上はフレズノを出る時「契約書には十分気を付けなさいよ」と言われていて拒否し続けたが、頑として拒む村上に球団職員は困り果てスタンドから日本語の分かる人を探してきて、説明を聞いて初めて納得してサインをしたのは試合開始15分前であり、GMはその契約書を持つや否や電話の所に走っていき、ナショナル・リーグの事務局へ電話で報告していた。 ゲーム開始後に村上はすぐレフト側にあるブルペンへ行くよう言われ、試合はジャイアンツが点を取れずに7回が終わったところで4-0とリードされていた8回表のブルペンに「8回裏マッシーが行け」と電話が入り、既にウォームアップはしていたものの、いざ決まると少し緊張した。8回裏に場内アナウンスが「ナウ・ピッチング!ナンバー・テン・マサノリ・ムラカミ」と響き、ブルペンで最後の一球を力一杯投げレフトフェンスの扉を開け場内に入って行くと、カクテル光線に照らされた濃い緑色の芝生の上を一歩一歩踏み締めながらマウンドへ向かったが、4万の大観衆の中で緊張のあまりあがってはいけないと思って咄嗟に坂本九の「スキヤキ・ソング」を口ずさみながらマウンドに進み、アルヴィン・ダーク監督や捕手と内野手が集まり「グッドラック!」と励ましてくれたほか、スタンドの声も言葉が通じなかったのが幸いしてかウォーミングアップは意外と落ち着いて出来た。1球目のサインはアウトコースの速球で、思っていた通りに村上の気持ちが捕手のトム・ハラーに伝わり、アウトローへパーフェクトのストライク、そして三振、安打、三振、遊ゴロに打ち取りデビューを0に抑える事ができ、チームは2-4で負け続投は出来なかったもののアジア人として初めてメジャー登板を果たし、村上は翌朝の新聞を見た時に各紙大きな見出しで「日本人初のメジャー・リーガー」と書かれて胸が高鳴った。マイナー時代から一転して一流のホテル、一流のレストランと待遇も大きく変わり、ニューヨーク→フィラデルフィア→ヒューストンと転戦して本拠地サンフランシスコに帰った時は、空港にアメリカ人は元より日系人が村上の快挙を祝福しに集まっていた。9月29日のコルト45's戦では9回同点の場面で登板して11回までを無失点に抑え、11回にチームがサヨナラ勝ちしたためアジア人初のメジャー勝利投手となった。同年は9試合に投げ1勝1セーブ・防御率1.80の好成績を収めたが、当時の日本は東京五輪の準備と開催の真っ只中であっため、日本マスコミの扱いは小さかった。 メジャー1年目のシーズンオフはアリゾナのウインターリーグに参加し、アリゾナ州立大学の学長は日系2世で、一人では大変だろうからと、電気釜やテレビを貸してくれた。11月にハリウッドへアメリカを代表するコメディアン、ボブ・ホープのショーを見に行くと、チームの先輩も来ていて、「今日は珍しいお客さまが来ています」と一緒に紹介されたこともあった。 1965年もジャイアンツとの契約を結んだが、そのオフに南海が留学の際の契約を反故にし村上を帰還させるよう主張したことで、村上の保有権を巡りホークス・ジャイアンツ両球団間で紛糾が勃発した。話し合いは平行線をたどり、また、メジャーリーグのフォード・フリックコミッショナーは当然のことながらジャイアンツを全面支持した。これに対し、日本野球機構の内村祐之コミッショナーは1965年シーズン終了をもって南海に復帰させるという妥協案を提示し、シーズン開幕後の4月末にようやく決着した。この時、長い時間悩まされた村上は、2月は呉のキャンプに参加して、その後は大阪球場や中百舌鳥球場で練習。たまに一軍の打撃投手を手伝ったりもしたが、練習はしていいものの、公式戦の出場は認められなかったため、開幕後は飼い殺し状態となった。再渡米する際に鶴岡に「この決定があと1ヶ月遅ければプロ野球界から足を洗うつもりでした」と伝えた。 5月5日に再渡米しチームに合流すると、翌6日には再会を祝して同じ誕生日であるキャプテンのウイリー・メイズと誕生日を共に祝ったが、その時の村上には一抹の不安があり、練習はしていてもまだゲームで投げた事がなく、メジャーリーガー相手にどれだけのピッチングが出来るのか自信はなかった。最初の5試合程は納得のいく内容ではなかったが、徐々に自分のピッチングが出来るようになり、特にドジャース相手には内容も良く、村上があまりにもドジャースに好投するので、監督に村上を使うと殺すという脅迫状が来て一時はFBIが見張っていたという事もあった。シーズン中には色々な出来事があり、ある試合で、マウンドへやってきたハーマン・フランクス監督に「Herman!Take a hike!!」と言ったことがあり、翌日の新聞に「マッシーが監督を追い返した」という記事が掲載された。驚いて調べると、「あっちへ行け」「出ていけ」という意味のスラングであった。監督は試合に勝利して機嫌を損ねなかったが、村上は意味を知っていたら絶対に言わなかった。実は、出番がやってきてブルペンを出ようとしたら、ブルペン捕手が「もし監督や捕手がマウンドへ来ようとしたら、Take a hike!!と叫ぶんだぞ」と言ったため、村上は言われた通りにしただけであった。フレズノ時代もチームメイトからスラングを教わって、下宿先の寮母に意味を聞いたところ、「絶対に白人女性に向かって言うんじゃないよ。へたすりゃ刑務所行きだよ」と脅かされた。 ある日のドジャース戦の8回2死で、サンディー・コーファックスに打順が回った際、ベンチから何か指示が出て、村上は最初「相手は投手だけど、真ん中に投げると打たれるぞ」という意味だと思った。凡打に仕留めてベンチへ戻ると「どうしてアウトにしたんだ。際どいコースを狙って、歩かせてほしかった」と返ってきた。次打者は6年連続盗塁王のモーリー・ウイルスで、次の回に出塁されると盗塁されて得点されるから、一塁を埋めて勝負しろということであった。ウイルスは次の回に、一邪飛に打ち取っている。 6月29日のドジャース戦ではコーファックスから三塁前へバント安打を決めてアジア人初初安打を記録し、8月15日には「ムラカミデー」と銘打たれた試合で、メジャーでは最初で最後となる先発も経験した。 ドジャース戦で打席に入ったマリシャルが振り向きざまにバットで捕手のジョン・ローズボロの頭部を一撃した時は、10分間程の乱闘の末にプレーが再開し、3番のメイズはコーファックスのカーブを見事に3ラン本塁打してジャイアンツは勝利したが、そのメイズのユニホームは頭部を割られたローズボロの鮮血で真っ赤に染まっていて、村上もこの試合に抑えで出てセーブを取った。この年は中継ぎとして45試合に登板し一時はクローザーを任されるほどの活躍を見せ、4勝1敗8セーブ・防御率3.75の好成績を残した。 村上は都合2年間メジャーでプレーし、ジャイアンツ側は1966年も貴重な戦力として再契約する意向であった。日米どちらでプレーするか選択権があると考えていた村上もメジャーでのプレーを望んでいたが、入団時の鶴岡との約束である「野球留学」という言葉を念頭に、約束を曲げてまで自分勝手な決定は出来ないと考え、あえて南海に復帰。最終的に1995年移籍の野茂英雄以降、数多くの日本人大リーガーの活躍によって村上が残した戦績は相対的に小さなものとなってしまったが、上記のようにまだ若く、しかも成績上昇中の中で無理矢理帰国させられたこと、二人目の野茂に30年も先んじていることを合わせると、その果たした歴史的役割は非常に大きい。
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サンフランシスコ・ジャイアンツ時代
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「黄載均」の記事における「サンフランシスコ・ジャイアンツ時代」の解説
2017年1月25日にサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加した。 シーズンの開幕はジャイアンツ傘下のマイナーリーグチームであるAAA級サクラメント・リバーキャッツで迎えた。 6月28日にコナー・ガレスピーの故障者リスト入りに伴い、メジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りし、同日のコロラド・ロッキーズ戦でメジャーデビューを果たした。サンフランシスコ・ジャイアンツ史上、韓国人選手がメジャーリーグの試合に出場するのは黄載均が初めて。メジャーでの背番号は1。このデビュー戦で本塁打も記録している。7月23日にAAA級サクラメントへ降格となった。7月28日にMLBへ再昇格したが、8月2日に再びAAA級サクラメントへ降格した。9月1日にDFAとなり40人枠から外れ、11月2日にFAとなった。
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サンフランシスコ・ジャイアンツ時代 (1986年 - 1993年)
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「ウィル・クラーク」の記事における「サンフランシスコ・ジャイアンツ時代 (1986年 - 1993年)」の解説
1985年に全米大学選抜チーム入り。その年のMLBドラフトでサンフランシスコ・ジャイアンツから1巡目(全体2位)の指名を受け、入団した。マイナーリーグでのデビュー戦の初打席では、調整登板していたロサンゼルス・ドジャースの名投手フェルナンド・バレンズエラから本塁打を打つ。翌1986年4月8日に早くもメジャーデビューを果たすと、デビュー戦で通算最多奪三振のノーラン・ライアン(当時ヒューストン・アストロズ)からメジャー初打席初本塁打を打つ。ルーキーイヤーの1986年は111試合で打率.287、11本塁打、41打点。新人王は当時の新人記録となる36セーブをマークしたトッド・ウォーレルに譲ったが、投票でも上位に入る活躍だった。 翌1987年は打率.308、35本塁打、91打点の活躍でチーム16年ぶりの地区優勝に貢献。1988年には初のオールスター出場を果たし、全162試合に出場して109打点をあげ、打点王のタイトルを獲得。1989年には打率.333、23本塁打、111打点をあげてチームの地区優勝に貢献。シカゴ・カブスとのチャンピオンシップシリーズ第1戦(リグレー・フィールド)では、カブス先発のグレッグ・マダックスから、3回表にソロ本塁打を、4回表に満塁本塁打を打った(後述)。ジャイアンツが3勝1敗と王手をかけて迎えた第5戦(キャンドルスティック・パーク)では1-1と同点の8回裏に、クローザーのミッチ・ウィリアムズから、2点タイムリーヒットを打つ。この活躍でクラークはこのシリーズのMVPに選ばれ、チームは27年ぶりのワールドシリーズ出場を果たした。オークランド・アスレチックスとのワールドシリーズでは良いところなく4連敗で敗れたが、これが唯一のワールドシリーズ出場となった。東西地区制最後の年となった1993年に、チームは103勝をあげるが、わずか1ゲーム差でアトランタ・ブレーブスの後塵を拝し、シーズンオフにFAでチームを離れる。
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サンフランシスコ・ジャイアンツ時代
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「デーブ・キングマン」の記事における「サンフランシスコ・ジャイアンツ時代」の解説
1971年7月30日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャーデビュー。翌日の同カードでメジャー初本塁打となる満塁本塁打を放つなど5打点を記録。翌日のダブルヘッダー第2戦でも2本塁打を放ち、最高のスタートを切る。打率.278、6本塁打を記録し、チームは地区優勝を果たす。ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.111と振るわず、チームも1勝3敗で敗退。結果的にこれが自身最初で最後のポストシーズンとなった。1972年に29本塁打、83打点を記録するが、打率は.225だった。
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