コルト45's(1962年 - 1964年)
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「ヒューストン・アストロズ」の記事における「コルト45's(1962年 - 1964年)」の解説
1962年、ナショナルリーグの球団拡張と同時にヒューストン・コルト45's(フォーティファイブス)として創設。名前は当時ヒューストンに存在した拳銃製造会社のコルト・ファイヤーアームズ社の代表的な拳銃であった「コルト・シングル・アクション・アーミー(コルト45ピースメーカー)」に由来する。「コルト45」拳銃は、19世紀後半の西部開拓の時代に評判となり大いに売れた拳銃で、映画やテレビ映画にも「コルト45」という題名があるくらいに有名な拳銃であった。 この年にはヒューストン・コルト45'sと同時にニューヨーク・メッツも創設され、この球団拡張によってナショナルリーグは8球団から10球団となった。当時はエクスパンション・ドラフトが充実しておらず、フリーエージェント制度がなく、リーグを代表するような長距離砲を獲得できず、メッツもコルト45'sも苦しいシーズンを乗り切らなければならなかった。 同年4月10日に最初の試合を本拠地であるコルト・スタジアムで行った。対戦相手にはシカゴ・カブスを迎え、11対2で初試合を初勝利で飾り、その後の3連戦を3連勝と幸先のいいスタートを切った。結局、初年度は64勝96敗を記録し、リーグ8位となった(リーグ9位はシカゴ・カブスで、最下位は同年に創設されたメッツで40勝120敗だった)。ハリー・クラフト監督の采配がよかったという見方が大半を占めた。翌1963年からスカウトが若手選手を中心に集め、年々その若手選手の活躍が目立つようになった。 1963年9月29日、メッツとの最終戦でジョン・パチョレック(ジム・パチョレックの実兄)がメジャーデビューし、3打数3安打3打点2四球2得点という成績を残した。しかし、故障などが祟って翌年以降はメジャー昇格が叶わず、この1試合に出場した限りで引退した。そのため、パチョレックは打率1.000を記録したまま引退した選手の中で、最も打数の多い選手としてメジャー史に名を残している。また、この試合で勝利投手となったジム・アンブリットが、翌年の4月8日に癌により33歳という若さで亡くなり、彼の背番号である32番はチーム初の永久欠番となった。 この頃、チームで活躍した選手には、後にシンシナティ・レッズでプレーし、ビッグレッドマシンの一員として知られるジョー・モーガンや、通算1920試合の出場で1665安打・291本塁打を記録し、後に永久欠番に指定されるジミー・ウィンなどがいたが、他球団に比べ戦力不足は否めなかった。1964年4月23日のシンシナティ・レッズとの試合で、投手のケン・ジョンソンがレッズ相手にノーヒッターを達成しながら0-1で敗戦投手になった試合は、この頃のチーム状況をよく表した試合の1つであろう。コルト45sはその後アストロズと名を改めるが、1968年まで90敗前後と大きく負け越すシーズンが続くこととなる。
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