コルト45'sとは? わかりやすく解説

コルト45's(1962年 - 1964年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:54 UTC 版)

ヒューストン・アストロズ」の記事における「コルト45's(1962年 - 1964年)」の解説

1962年ナショナルリーグ球団拡張同時にヒューストン・コルト45's(フォーティファイブス)として創設。名前は当時ヒューストン存在した拳銃製造会社コルト・ファイヤーアームズ社の代表的な拳銃であったコルト・シングル・アクション・アーミーコルト45ピースメーカー)」に由来する。「コルト45拳銃は、19世紀後半西部開拓時代評判となり大い売れた拳銃で、映画やテレビ映画にも「コルト45」という題名があるくらいに有名な拳銃であったこの年にはヒューストン・コルト45's同時にニューヨーク・メッツ創設され、この球団拡張によってナショナルリーグは8球団から10球団となった当時エクスパンション・ドラフト充実しておらず、フリーエージェント制度がなく、リーグ代表するような長距離砲獲得できず、メッツもコルト45'sも苦しシーズン乗り切らなければならなかった。 同年4月10日最初試合本拠地であるコルト・スタジアム行った対戦相手にはシカゴ・カブス迎え11対2で初試合を初勝利飾りその後の3連戦を3連勝幸先のいいスタート切った結局初年度6496敗を記録しリーグ8位となったリーグ9位はシカゴ・カブスで、最下位同年創設されメッツ40120敗だった)。ハリー・クラフト監督采配よかったという見方大半占めた。翌1963年からスカウト若手選手中心に集め年々その若手選手活躍が目立つようになった1963年9月29日メッツとの最終戦でジョン・パチョレック(ジム・パチョレック実兄)がメジャーデビューし、3打数3安打3打点2四球2得点という成績残した。しかし、故障などが祟って翌年以降メジャー昇格が叶わず、この1試合出場した限り引退した。そのため、パチョレック打率1.000を記録したまま引退した選手の中で、最も打数の多い選手としてメジャー史に名を残している。また、この試合勝利投手となったジム・アンブリットが、翌年4月8日に癌により33歳という若さ亡くなり彼の背番号である32番チーム初の永久欠番となったこの頃チーム活躍した選手には、後にシンシナティ・レッズプレーしビッグレッドマシン一員として知られるジョー・モーガンや、通算1920試合出場で1665安打291本塁打記録し、後に永久欠番指定されるジミー・ウィンなどがいたが、他球団比べ戦力不足は否めなかった。1964年4月23日シンシナティ・レッズとの試合で、投手ケン・ジョンソンレッズ相手ノーヒッター達成しながら0-1敗戦投手になった試合は、この頃チーム状況をよく表した試合1つであろうコルト45sはその後アストロズと名を改めるが、1968年まで90前後大きく負け越すシーズンが続くこととなる。

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