上方噺家
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上方噺家(かみがたはなしか)とは、上方落語の噺家(落語家)のこと。一般的には「上方落語家」「上方落語の噺家(落語家)」などと称する[1]。
- ^ 公益社団法人上方落語協会 上方落語協会の歴史2017年2月25日閲覧、天満天神繁昌亭 上方落語家名鑑2017年2月25日閲覧。両webページ内では「落語家」「噺家」「上方落語家」と記してある。上方落語はかつて大阪落語と呼ばれていた。一般的に落語を演じる事を稼業とする者の呼称は東西ともに「落語家」・「噺家」で、特に上方落語(関西の落語)の演者を示す場合は「上方落語家」「上方落語の噺家(落語家)」などと呼び、東京の芸界では現在でも上方落語を「大阪落語」、上方落語の噺家を指して「大阪の○○師匠」などと呼ぶことがある。少なくとも「上方噺家」という呼称は一般的ではない[要出典]。
- ^ 発祥は江戸落語の「林屋」からの分流であった。現在は江戸落語の「林屋」も“林家”に変わっている。
上方落語家
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3代目桂春蝶:(上方落語協会) 父は2代目桂春蝶。師匠は3代目桂春団治、1994年入門。2009年8月30日、父の名跡・春蝶襲名。 月亭八光:(上方落語協会) 父は月亭八方。師匠も同じ、1996年入門。よしもとクリエイティブ・エージェンシー 所属。
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上方落語家
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上方落語に関しては、もともとはそれほど造詣が深くなく、東京で上方落語を演じていた2代目桂小文治の落語を聞いても何を言っているのかも分からなかったが、2代目三遊亭百生に出会い、その面白さを認識した。若手の頃に志ん朝と仕事で来阪した際、空き時間にたまたま6代目笑福亭松鶴の『らくだ』を聞いて、2人とも打ちのめされるほど感動したという。5代目桂文枝を好きな大阪の落語家の1人として挙げていて、二人で落語会も開催していた。 3代目桂米朝 3代目桂米朝とは若手時分より大阪や東京での米朝独演会に参加し、「兄貴」と呼ぶ(入門は米朝が1947年、談志が1952年)など友好関係を築いた。後年は「米朝さん」と呼ぶなどして敬意を表していた。米朝の人間国宝認定については「(米朝は)滅亡寸前の上方落語の中興の祖なので、認定も当然だ」と述べている。 6代桂文枝 6代桂文枝(前名:桂三枝)の「創作落語」に対する評価は高く、「(柳家)金語楼を質、量とも超えた」「(三枝の創作落語は)池の波紋ではなく、川の流れになった」と絶賛している。なお、2代目快楽亭ブラックが談志に破門された際、一時三枝一門に転じていたという縁もあった。談志はこの件で三枝に恩義を感じ、晩年まで二人会を開くなど交流があった。三枝は、談志の死去に際しての記者会見で「(談志は)憧れだった。師匠に認められたくて一生懸命にやってきた」と語った後、涙ながらに「亡くなったことをウソだと思いたい」とコメントした。 6代桂文枝の襲名に当たり、文枝は落語家では談志のみに相談した。談志は三枝の名前を大きくしたことを理由に襲名には否定的だったが、最終的に文枝は襲名を決意。談志はこれに対し「三枝のバカヤロー」と書いたFAXで応えた。 2代目桂枝雀 2代目桂枝雀の「笑いは緊張の緩和」であるとの見解(「緊緩理論」)を支持していたが、当の枝雀の芸に対しては「好きになれない」と低い評価を下していた。しかし晩年それは誤りだったとし、さらに「自分の提唱したイリュージョンを枝雀はやっている。枝雀は米朝(枝雀の師匠)そっくりにできて、次の米朝になれて、それが嫌ならイリュージョンもできたのに……」と語った。さらに、志ん朝の死後「(志ん朝は)さっさと死にやがって、俺は死にたくても死ねないのに……。志ん朝と言い、枝雀と言い、俺がライバルと思ったやつはみんな先に死んでしまう。死なれちゃあ、勝てないじゃないか」などと談志独特の表現でその死を悼んでいる。「桂枝雀 (2代目)#うつ病再発」も参照
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