拉致・目撃情報
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ルーマニア紙『Evenimentul Zilei(英語版)』の2007年3月20日号などによれば、ドイナ・ブンベアは1978年10月にローマで拉致されたとみられ、失踪直前、彼女はルーマニアの両親に何度も電話をかけ、直前に日本で美術展覧会を開かないかとのオファーを「自称イタリア人」から受けたことで興奮していたという。ジェンキンスの著書ではドイナは美術商のようにみえる「自称イタリア人」から経歴や暮らしぶりを聞かれ、個展のツアーを持ちかけられて「香港などはどうだろう」と誘惑されたと記している。いずれにしても、「自称イタリア人」は実際には北朝鮮の人間(北朝鮮支持者か北朝鮮に雇われた工作員)であった。ドイナは、ルーマニアの旅券もイタリアの旅券も持っていなかったので、男がつくってくれた北朝鮮の偽造旅券を持って旅立った。ソビエト連邦領内は問題なく通過したが、北朝鮮に寄ったところを当局に拘束された。拘束理由は偽造旅券だということであったが、まさにその通りであったために言い逃れできなかった。結局のところ彼女は騙されたのであり、どこへも行くことができなくなってしまった。家族は、彼女の友人(を名乗る人物)からは「ドイナが死亡した」との電話を受け取った。しかし家族はその3日後に、ドイナ本人からの「拉致されている」との電話を受け取っている。 チャールズ・ジェンキンスによれば、ジェンキンスら4人のアメリカ陸軍投降兵は1972年まで小家屋での軟禁状態に置かれた。そのうちの1人、ジェームズ・ドレスノクの結婚相手がドイナ・ブンベアであった。2人のあいだには1980年暮れに生まれたリカルドと1984年春に生まれたガブリエルの2人の息子がいた。ガブリエルは「ガビ」と呼ばれていた。ドイナの家族が、イギリス制作のドキュメンタリー番組『休戦ラインを超えて (Crossing the Line)』を2006年末に視聴したところ、ドイナの息子のガブリエルが登場しており、彼女によく似ていたという。彼女は、自分の愛した弟の名を次男につけたと思われる。 1978年、ドレスノク、ジェリー・パリッシュ、ラリー・アレン・アブシャーの3人の脱走者は、いずれも北朝鮮によって拉致されてきた外国人と結婚し、1980年にはジェンキンスも曽我ひとみと結婚し、それぞれの家庭は途中離れ離れになったことがあったが、1981年以降は平壌の勝湖区域立石里に同じ3階建てのアパートの2階と3階に転居させられ、そこで暮らしていた。なお、1979年から1981年にかけて北朝鮮で制作されていたスパイ映画『名もなき英雄たち』にドイナ自身が出演していたという。 チャールズ・ジェンキンス『告白』には、ドイナが曽我ひとみをいじめたことがあるという記述があり、それを読んだドイナの母は日本の「救う会」のメンバーに会うなり「曽我ひとみに謝罪したい」「決してそういう子ではなかった」と語ったという。またドイナが曽我ひとみに教えた料理のひとつに、ドイナの母がドイナに伝えたものがあったという。 ドイナ・ブンベアは1996年、肺がんと診断された。医師からの説明は、すでに進行していて手の施しようがないというものであった。退院して間もなく体調が悪化し、約半年持ちこたえたが、最後の数か月はひどく苦しんだ。看護師でもあった曽我ひとみは毎晩ドイナを見舞ってモルヒネを注射してやっていた。1997年1月、ドイナ・ブンベアは癌で死去した。46歳であった。彼女の最期は曽我ひとみが看取った。北朝鮮の土に埋葬されたくないというドイナの希望により、遺体は火葬された。なおドレスノクはその後、1999年に北朝鮮人とトーゴ人の混血女性ダダと再婚した。
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拉致・目撃情報
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「松本京子 (拉致被害者)」の記事における「拉致・目撃情報」の解説
松本京子が行方不明となったのは1977年(昭和52年)10月21日のことで、その日の午後8時頃、母の三江に「編み物教室に行ってくる」と言って自宅を出た後のことである。普段着のままで、現金も所持していなかったという。近所の住人が、彼女の自宅から200メートルほど離れた住宅の裏の松林で男性2人と話している京子を目撃し、男たちに「何をしている」と声をかけたところ、2人のうちの1人からいきなり頭を殴られたという。目撃者は額に数針縫うケガをした。その後、彼女は家の近くの日本海の方へ連れていかれ、連れ去られたとみられる現場にサンダルの片方を残して失踪した。娘を突然失った彼女の母親は、毎日毎日海岸を「京子、京子」と呼びながら探し回り、近所も探し回ったが何の手がかりも得られず、家族は悲しみに沈んでいた。その後の調べで、北朝鮮で目撃したとの情報や失踪直前に現場付近を航行していた不審船(北朝鮮工作船とみられる)の存在が判明した。なお、この事件の前後、石川県能登半島宇出津の海岸で警備員久米裕(当時52歳)が連れ去られた事件が9月19日、新潟県新潟市で中学1年生だった横田めぐみ(当時13歳)が行方不明となった事件が11月15日に起こっている。 松本京子の兄は、1988年(昭和63年)に大韓航空機爆破事件(1987年)後の韓国での取り調べ中に実行犯金賢姫が自身の日本語教育係として「李恩恵」(仮名)の名を挙げ、そのモンタージュ写真が報道されたとき、「もしかしたら北朝鮮にいるのかな」と初めて思ったという。それが確信に変わったのは、1990年(平成2年)の福井県沖の不審船事件の報道に接したときであった。 2000年(平成12年)11月1日付の金子善次郎議員(当時、民主党所属)による国会での質問主意書に対し、当時の日本国政府(第2次森内閣)は12月5日付で「所用の調査を実施したが、北朝鮮に拉致されたと疑わせる状況等はなかったものと承知している」と答弁している。しかし、政府は2002年(平成14年)10月末のクアラルンプールでの日朝交渉の際、非公式に松本京子、小住健蔵、田中実の3名についての安否確認を北朝鮮に求めた。北朝鮮側は、入国を確認できなかったと説明している。 2000年に韓国に亡命した北朝鮮の元国家保衛部将校の「金国石」(仮名)は、2003年(平成15年)、松本京子を北朝鮮で目撃したと証言した。それによれば、「金」は1994年から1997年の間、北朝鮮領内で日本海沿岸の清津連絡所(咸鏡北道清津市)で「キョウコ」なる女性を4度目撃し、彼女の写真にとてもよく似ているという。「金国石」は、目撃した彼女は明朗な性格のように見え、よく笑いながら話していたという。彼女は、日本語を教えたり、日本からの資料を翻訳したり、日本のラジオやテレビを傍聴したりして暮らしているようであった。清津連絡所の中庭に日本から運ばれた中古車数十台があり、彼女がそのなかの日産・ブルーバードの座席に座って自動車についていろいろと説明していたことがあり、そのとき本人と会話も交わしている。そのとき、彼女はトランクのなかにあったゲーム機のようなものを取り出して、清津連絡所の参謀長に「これを貰ってよいですか?」と聞いていた。彼女は連絡所外に出ることはあまりなかったように見えたが、赤い服を着ていて、髪型もおしゃれで洗練されていたという。 2004年(平成16年)1月29日、特定失踪者問題調査会が鳥取県米子警察署に告発状を提出した。日本国政府は2006年(平成18年)11月20日、松本京子を拉致被害者として認定した。事件発生から29年後のことであった。 2013年(平成25年)5月30日、ラオスで拘束され北朝鮮に強制送還された脱北者9名の中に松本京子の子息が含まれている可能性がある、と東亜日報など韓国の一部マスコミが報じた。京子の兄は同日、「息子がいるとは知らなかった」「事実なら生存の可能性が高まる」とコメントした。しかし、韓国政府はこの報道に対し否定的で、5月31日、韓国の拉致被害者家族でつくる「拉北者家族会」代表の崔成龍は松本について、北朝鮮で結婚したが子供はいないとの情報を2003年時点で入手していたことを明らかにした。それによれば、松本京子は花き栽培所に勤務しており、2011年に清津から平壌に移住させられたという。大韓民国国家情報院も拉北者家族会と同様の見解に立っている。しかし、これらの情報について日本政府は「捜査中」であるとの理由から何ら見解を示していない状態である。
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