ゲットーの運営
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ウッチのユダヤ人評議会議長ルムコフスキはゲットー内で独裁的な政治を行っていた。ルムコフスキの強力な指導体制の下、ウッチ・ゲットーでは統制経済が取られていた。ゲットー内に民間企業はほとんど存在せず、ユダヤ人評議会があらゆる分野の活動を統制していた。これは比較的自由主義的なユダヤ人評議会が置かれ、市場原理主義的な経済体制が取られていたワルシャワ・ゲットーと大きく異なっている点であった。ウッチ・ゲットー内の紙幣にはルムコフスキの署名が入っており、また切手の肖像画にはルムコフスキが使われていたことからも彼の支配の強力さがうかがえる。 しかしながらそれ故にルムコフスキはゲットー住民から激しく嫌われた。ゲットー内ではルムコフスキの強圧政治に対する抵抗運動が激化し、デモやハンガー・ストライキが多発した。1940年8月にはゲットー警察だけでは取り締まれなくなり、ゲットー外のドイツ当局の助力を得てようやく鎮圧している。しかし9月にはデモが再開し、9月半ばにはルムコフスキが路上で襲撃を受けるという事件まで発生した。他のゲットーでもユダヤ人評議会に対する批判活動はみられたが、ここまで激しかったのはこのウッチ・ゲットーのみである。 そのためウッチ・ゲットー内にはドイツの刑事警察の派出所が存在していた。彼らは抵抗運動を起こした者から金品を巻き上げることに励んでいた。 ゲットー内では絶対的な存在であるルムコフスキもドイツ当局の命令には全く異を唱えられず、従うよりほかになかった。特にリッツマンシュタット(ウッチ)市役所のゲットー局局長ハンス・ビーボウ(de:Hans Biebow)が頻繁に命令を下し、彼とその上官が実質的にゲットーを支配していた。
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ゲットーの運営
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「テレージエンシュタット」の記事における「ゲットーの運営」の解説
テレージエンシュタットの運営は「プラハ・ユダヤ人国外移住本部」を管轄下に収める国家保安本部ゲシュタポ局ユダヤ人課課長アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐にほぼ一任されていた。テレージエンシュタットの司令官はみなオーストリア出身でアイヒマンの部下たちだった。しかしその親衛隊司令部はかなり小規模であり、テレージエンシュタットの警備はチェコ人地方警察によって行われていた。 テレージエンシュタットは他のナチスのゲットーと同様にユダヤ人長老評議会が置かれ、ユダヤ人の「自治」を装っていた。親衛隊の司令官がユダヤ人の中からユダヤ人長老を任じて直接の運営にあたらせていた。ユダヤ人長老たちは定期的に親衛隊の司令部に赴き、報告したり、命令を受けたりしていた。はじめチェコ・ユダヤ人ヤーコプ・エーデルシュタインが長老をしていたが、1943年1月にアイヒマンの希望によりベルリンから送られてきたドイツ・ユダヤ人パウル・エプシュタインに変更された。しかし用が済んだ後、エプシュタイン達ユダヤ人代表団は銃殺されている。 司令官 親衛隊大尉ジークフリート・ザイドル(ドイツ語版)博士(1941年12月-1943年6月) 親衛隊大尉アントン・ブルガー(ドイツ語版)(1943年7月-1944年2月) 親衛隊大尉カール・ラーム(ドイツ語版)(1944年2月-1945年5月) ユダヤ人長老 ヤーコプ・エーデルシュタイン(ドイツ語版)(1941年12月-1943年1月) パウル・エプシュタイン博士(1943年1月-1944年9月)
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