政治に対する抵抗
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「シュテファン・ハイム」の記事における「政治に対する抵抗」の解説
非スターリン化の流れがあったにもかかわらず、東ベルリン暴動をテーマにした『Xデー(Der Tag X)』(のちのタイトル『6月の5日間(Fünf Tage im Juni)』)の出版が拒絶された1956年から、国家との対立はすでに生じていた。1965年、エーリッヒ・ホーネッカーが、ドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第11回総会(ドイツ語版)でハイムを激しく攻撃すると、緊張はさらに高まった。同年、ハイムは、出版禁止処分を課せられ、1969年に許可を得ずに西ドイツで『ラサール(Lassalle)』を出版したことで、罰金刑を受けることになった。しかし、それでもなお旅行のために東ドイツを離れることは可能であり(例えばアメリカでの公演)、1970年代初めからは、本の出版は、発行部数は増やせなかったものの、再び東ドイツで出版できるようになった。 文化政策の緊張が緩和し、ハイムが1971年から再び西ドイツの出版社と共同作業できたことの背景には、明らかにエーリッヒ・ホーネッカーの演説があった。1971年5月にホーネッカー新政権が誕生したあと、彼は演説のなかで社会主義リアリズムがもつ硬直した独断的な文学観を緩和することを仄めかした。SED中央委員会の高官たちを前にしたこのスピーチは、「タブーなし(Keine Tabus)」というキャッチフレーズで知られている。 1976年、ヴォルフ・ビーアマンの市民権剥奪に対して東ドイツの作家たちは抗議の声をあげ、請願書を書いて署名者を募ったとき、ハイムもこれに署名した。この時点では、ハイムはまだ西側で出版することができ、作品もドイツ語で書くようになった。1979年には、西ドイツでの無許可の出版で二度目の刑を宣告された。『コリン(Collin)』の出版で『東ドイツ作家連盟(ドイツ語版)から除名されることになった。 1980年代、シュテファン・ハイムは、東ドイツの公民権運動を支持し、1989年秋には東ベルリンの月曜デモでたくさんの演説を行い続けた。1982年の時点では、彼は社会主義的傾向を持ったドイツ再統一を主張していたが、1989年11月の終わりになると、東ドイツの自主性を擁護する声明「私たちの国のために(Für unser Land)」の共同提案者・署名者となった。ハイムは、平和革命の直接的な引き金となった11月4日アレクサンダープラッツ・デモ(ドイツ語版)の支持者でもあった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}窓がひとつ空いたかのようだ! 精神的にも経済的にも政治的にも停滞した時代、陰鬱で淀んだ空気の時代、建前ばかりの無駄口、官僚の横暴、役所の盲目さと感覚麻痺の時代は終わった。ある人に言われたのだが、その人は正しかった。我々はここ数週間で失語状態を克服し、いまやまっすぐした歩き方を学びとるときだ。 —シュテファン・ハイムの1989年11月4日のデモ ドイツ再統一後、ハイムは1989年11月に再び東ドイツ作家連盟に加盟し、1990年には法的な復権(名誉回復)も果たした。
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