ゲットー成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/09 23:07 UTC 版)
ウッチの町の中でも特に荒廃した北方の旧市街区域(スターレ・ミアスト地区(Stare Miasto)、バルティ地区(Baluty)、マリジン地区(Marysin))にウッチ・ゲットーは作られた。この区域はもともとユダヤ人が大勢固まって暮らしていた地域であり、6万2000人ものユダヤ人がすでに暮らしていた。 1940年2月に地元の警察長官ヨハネス・シェーファー親衛隊少将(de:Johannes Schäfer)は、ここを中心にゲットーを創設することを布告した。この区域に住む非ユダヤ人は4月30日までに退去することを命じられた。さらに町の他の区域や郊外から約10万人のユダヤ人がこのゲットーに連行されてきた。1940年4月にこの区域が封鎖されてウッチ・ゲットーとなった。 この時点でウッチ・ゲットーには16万人を超えるユダヤ人がこのゲットーで暮らしていた。またこのゲットーにはオーストリアから移送されてきた5000人のジプシー(ロマ民族)も送り込まれており、ゲットー内には彼ら専用の収容区画が存在していた。 ウッチ・ゲットーの周囲にはワルシャワ・ゲットーやクラクフ・ゲットーのような壁こそ作られなかったが、有刺鉄線の鉄条網で囲まれており、監視塔と検問所も置かれ、出入りは厳しく制限されていた。そのため前者二つに次いで閉鎖的なゲットーだった。
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