ゲットー解体後のヨゼフォフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 15:26 UTC 版)
「ヨゼフォフ」の記事における「ゲットー解体後のヨゼフォフ」の解説
1851年にヨゼフォフはプラハ五区の一つとなった。裕福なユダヤ人たちは次々とヨゼフォフを出て行くようになり、代わりに非ユダヤ人の下層民が続々とヨゼフォフにやってくるようになり、ヨゼフォフは貧民窟と化した。 1893年には、あまりにも不衛生になったヨゼフォフを衛生化するための法律が公布され、1896年から1917年にかけてヨゼフォフの再開発が開始された。歴史的建造物の保存を訴える声が上がっていたが、多くは取り壊されてしまった。ユダヤ人市庁舎と6つのシナゴーグと旧ユダヤ人墓地だけが取り壊しを免れた。この再開発でヨゼフォフ地区にはアール・ヌーヴォー建築、新古典主義建築、キュービズム建築の建物が次々と建設された。ヨセフォフの真ん中を貫く広い通りが作られ、その両側には当時パリで流行っていたアール・ヌーヴォー建築の建物が並べられた。そのためこの通りはパリ通りと名付けられた。 20世紀文学においてプラハ・ユダヤ人はフランツ・カフカ、フランツ・ヴェルフェルなどの著名な作家を輩出した。 1918年に第一次世界大戦でのオーストリア・ハンガリー帝国の敗戦により、プラハはオーストリアから独立したチェコスロバキア共和国の首都となった。1939年のチェコスロバキア併合でプラハは一時期ナチス・ドイツに併合されたが、戦後にソ連衛星国として再度発足したチェコスロバキア共和国の首都となる。ビロード革命での共産党独裁体制の崩壊を経て、1993年には「ビロード離婚」によってチェコとスロバキアが分離し、プラハはチェコ共和国の首都となり、今日に至る。 ナチス・ドイツ期にはプラハをはじめチェコスロバキア全土でユダヤ人狩りが行われた。プラハのユダヤ人たちはテレージエンシュタット・ゲットーへ送られ、更にその後アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られ、多くは殺害された。プラハ・ユダヤ人5万5000人のうち3分の2がナチス強制収容所において死亡している。
※この「ゲットー解体後のヨゼフォフ」の解説は、「ヨゼフォフ」の解説の一部です。
「ゲットー解体後のヨゼフォフ」を含む「ヨゼフォフ」の記事については、「ヨゼフォフ」の概要を参照ください。
- ゲットー解体後のヨゼフォフのページへのリンク