社民党離党から民主党入党まで
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「辻元清美」の記事における「社民党離党から民主党入党まで」の解説
2010年5月28日、沖縄県の普天間基地移設問題で、日米の政府間合意に閣議決定で反対し署名を拒否した福島瑞穂内閣府特命担当相が鳩山由紀夫首相に閣僚を罷免され、連立政権を離脱するか否かが問題となった。当時フランスのパリに外遊中だった辻元は、連立離脱に慎重とされていたが、「政治的に一つの曲がり角ですけど、日本に帰って社民党の仲間と話し合って、今後の対応を決めていきたい」と述べて自身の進退につき明言を避けた。前原誠司国交相は5月29日に辻元に副大臣続投を要請したが、社民党が5月30日に連立離脱を決定したことを受け、辻元は同日中に辞任の意向を伝達し、5月31日に辞表を提出して受理された。辞表提出後のインタビューでは、「国交省は利権の巣窟というイメージがあったが、そうではなかった。不安いっぱいだったが、多くの職員が変えていこうという思いに賛同してくれた。辞めるのは寂しいしつらい」と涙ながらに語った。 連立離脱について辻元は「鳩山政権離脱という選択が良かったのかどうかは、迷う。離脱することによって、自民党政権が復活したり、改憲への道が開けたりする恐れがある。肝心の普天間基地の問題かって、どうしようもないカッコ悪さに耐えながら、政権に残っていた方が余地が大きかったんと違うかなあ。『地獄への道は善意で舗装されている』という言葉があるように、正しい選択が正しい結果を導くとは限らんやろ」と述べ、「当時、日米合意があっても沖縄の合意がなければ辺野古移設は実現しないという閣議決定はできないか、と折衝していました。私はその歯止めができないかと考えていたんです」と主張している。 同年7月26日夜、重野安正幹事長と会談し、その席で離党の意向を伝えた。7月27日の午前中には福島党首から離党を思い留まるよう慰留されるも、福島の説得を受け入れず、離党届提出後の記者会見で次期衆議院議員総選挙に無所属で出馬する考えを表明した。離党理由については「現実との格闘から逃げずに国民のための仕事を一つずつ進めていきたい」としている。福島との面談が重野との会談の翌日となった理由については、福島が辻元との対話をたびたびキャンセルしたことを挙げている。 同年8月19日、社民党は辻元の離党届を受理した。地元の党大阪府連合の要請により、除名などの処分は見送られた。 同年9月28日、衆議院会派「民主党・無所属クラブ」に入会し、国土交通委員会与党筆頭理事に就任した。9月29日には中国建国記念レセプションに出席した。 2011年3月13日、東日本大震災を受け、災害ボランティア担当の内閣総理大臣補佐官に就任。 同年9月5日、野田内閣の発足を受け、首相補佐官を退任。9月7日には民主党入りの意向が報じられ、社民党の福島党首は記者会見で「応援した人を裏切っていくことは、一人の政治家として良いことではない。理念より権力に近寄る方を選択すると思ってしまう。すごく残念だ」と批判した。9月10日には民主党大阪府連に入党届を提出して了承され、9月27日に党本部の常任幹事会の了承を経て正式に入党した(同時に衆院大阪府第10区支部長に就任)。 同年10月20日、民主党政調副会長に就任。10月24日には前原誠司政調会長により「提言型政策仕分け」の「仕分け人」に選ばれる。 2012年4月19日、「秋の大型連休」導入を検討するプロジェクトチームの座長として初会合を開いた。4月24日の政調役員会で、消費増税法案の閣議決定に抗議し辞表を提出した松崎哲久国土交通部門会議座長の後任に起用されることが決まった。 同年12月の第46回衆議院議員総選挙で大阪10区より出馬、松浪に敗れたものの比例近畿ブロックで復活し5選。同選挙で大阪の選挙区から出馬して当選した民主党の候補者が他にいなかったため当時は民主党大阪府連に属する唯一の衆議院議員であった。
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