アレクサンドリアの占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:36 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)」の記事における「アレクサンドリアの占領」の解説
この成功に希望を得たカリフのマフディーは、遠征の指揮を執らせるために息子で後継者のカーイムをフバーサとは別の軍隊とともに東方へ派遣した。カーイムは多数のクターマ族とイフリーキヤのアラブ人部隊からなる軍隊を率いて7月11日にラッカーダ(英語版)のマフディーの居所から出発した。カーイムの軍隊は8月1日にタラーブルスに到着し、そこでカーイムはフバーサにエジプトへの正式な侵攻を始める前に自分の到着を待つように伝える手紙を送った。しかしながら、野心を抱いていたフバーサはこの命令を無視し、軍隊を率いてエジプトに向かった。そしてアル=ハンニーヤ(現代のエル=アラメイン付近)でアッバース朝軍を破り、914年8月27日にアレクサンドリアに入った。クターマ族の軍隊はナイル川に沿って南方を奇襲し、エジプトの首府であるフスタートの対岸に位置するギーザまで到達すると、その地を徹底的に破壊した。フバーサはアッバース朝のエジプト総督であるタキーン・アル=ハザリーに手紙を送り、降伏と引き換えに安全保障(amān)を与えると持ち掛けたが、タキーンはこれを拒否した。一方のカーイムは914年11月6日にアレクサンドリアに到着し、そこでファーティマ朝のアザーン(礼拝の呼び掛け)とクターマ族による統治、そしてイスマーイール派のカーディー(裁判官)の就任を強要した。 これらの出来事が起こっている一方で、アッバース朝の首都であるバグダードではアレクサンドリアへのファーティマ朝軍の到来がパニックを引き起こしていた。それまでアッバース朝政府はイフリーキヤでの出来事やマフディーの主張にほとんど関心を払っていなかったが、直ちにマフディーの出自と目的について緊急の調査が行われた。タキーンは即座に援軍を要請し、シリアの各地から軍隊が動員された。そして914年9月に最初のシリア軍の部隊がフスタートに到着した。10月にはアッバース朝のカリフのムクタディル(在位:908年 - 932年)がムウニス・アル=ハーディム(英語版)を軍の総司令官に任命し、エジプトへ向かうように命じた。また、遠征を支援し、遠征軍の派遣に伴うエジプトの民衆の財政負担を減らすため、国庫から2,000,000ディルハムの銀貨が支出された。
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