アレクサンドリアからの撤退とキレナイカの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:36 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)」の記事における「アレクサンドリアからの撤退とキレナイカの反乱」の解説
この失敗にもかかわらず、父親に宛てた手紙や依然として続いていたアレクサンドリアにおける説教(フトバ(英語版))において、カーイムはまだ自分の最終的な成功への自信を失っていなかったように見える。アレクサンドリアでは金曜礼拝で数多くの説教を行い、イスマーイール派とファーティマ朝の大義を広めた。また、しばらくの間カーイムの安全保障を求めるエジプト人の離反者たちとの交渉に携わった。カーイム自身はこのような離反者による提案の誠意に完全には納得していなかったようであるが、この交渉はフスタートの降伏への見通しを高めた。しかし、915年4月にアッバース朝軍の総司令官のムウニス・アル=ハーディムがフスタートに到着したことで、交渉の成立も不可能となった。ムウニスはタキーンを解任し、ズカー・アッ=ルーミー(英語版)を後任に据えた。 この出来事の直後にフバーサが自分に最も近い立場にあった30人の部下を引き連れてカーイムの下から脱走し、イフリーキヤへ向かった。この状況に危機感を抱いたカーイムは兵器と装備の多くを残して戦うことなく急遽アレクサンドリアから撤退した。ズカーはアレクサンドリアを占領し、息子のムザッファルが率いる強力な守備隊を都市に残した。そしてカーイムと通じていたと疑われる者たちへの処罰を下すためにフスタートに戻った。カーイムは915年5月28日にラッカーダに帰還した。しかし、後方のキレナイカで反乱が起こり、ファーティマ朝の支配が打倒された。バルカではクターマ族の守備隊が全員殺害された。反乱は18か月に及んだバルカに対する包囲戦の末に917年に鎮圧された。
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