ザンギーの急死と後継者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:33 UTC 版)
しかしザンギーはエデッサ伯国の残る東のほうの領土やアンティオキア公国など十字軍国家の駆逐を開始するかと思いきや、翌1145年、またもバールベクに戻りダマスクス攻城戦の準備を始めた。しかしジョスラン2世の残存勢力がエデッサの奪回を狙っていると聞くと再びエデッサに戻り協力者たちを処刑し、かわりにユダヤ人たちを居住させた。またモースルの政情不安や、ジャズィーラの領主たちに反抗の意思があるなど、しばらくは北にとどまらねばならない状態だった。1146年9月、幕営で酒を飲んで寝ているところをヤランカシュという西洋人奴隷に暗殺された。西洋人の年代記作家は大酒を飲んで寝ているところを大勢の従者に襲われ血の海に沈み殺されたと喜ばしいニュースとして書いている。 ザンギーの急死は軍をパニックに陥れ、見る間に軍は解体し消え失せた。宝物も武具も奪われ、将たちは兵を連れて各地へ散り散りになった。メリザンドはザンギーの死の報に接し急に気が強くなり、アレッポとエデッサの攻略計画を練った。アンティオキア公レーモンはザンギーに奪われた領土を取り返しアレッポに迫った。ダマスクスのウナルもバールベクとホムス、ほか奪われた領土を奪還してシリアのほとんどを回復した。ジョスラン2世もエデッサをたちまち奪還してしまった。ザンギーの築いた王朝は霧散しかけたが、彼の息子がその事業を引き継ぐことになる。 ザンギーの死後、ザンギー朝の領土はジャズィーラ(北部イラク)を領しモースルに拠るサイフッディーン・ガーズィーと、シリアを領しアレッポに拠るヌールッディーンの2人の息子に分割された。後者の領土はいまだアレッポ周囲のみだったが、やがてエデッサを奪還しダマスカスを含むシリア全域に領土を拡大させた。彼の側近と軍事組織の中から、サラーフッディーンのアイユーブ朝が自立して誕生することになる。
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