第二のデンマーク東インド会社(1670年–1732年)
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デンマーク=ノルウェーとトランケバル間の貿易は再開された。新しいデンマーク東インド会社が組織され、いくつかの新しい交易事務所が、支配の確立しているトランケバルから展開されていった。1696年にはマラバール海岸にはOddeway Torreが。1698年にはシャンデルナゴルの南東に位置するゴンドル・パラにデンマークスナゴル(Dannemarksnagore)が。さらにナーヤカとの和平も確認され、トランケバルは周辺の3つの村を含むように拡大することが許可された。 1706年6月9日–デンマーク=ノルウェー王フレデリク4世は、2人のドイツ人宣教師、ハインリッヒ・プルトチャウとバルトロモイス・ジーゲンバルグをインドに派遣した。これは、インドで最初のプロテスタント(ルーテル教会)の宣教師である。以前にいた司祭は改宗を試みておらず、インド人はヨーロッパ人の教会に入ることを拒んでいた。 1707年に到着した彼らは、スパイではないかと疑われたため同胞に歓迎されなかった ジーゲンバルグは、キリスト教化を進めるために王令によって解放されたインド人たちから改宗者を獲得した。キリスト教は下層カーストの人々と結びついたが、上層カーストのヒンズー教徒からは拒絶された 王の権威の下に来たジーゲンバルグがトランケバルの奴隷貿易を弱体化させていると感じていた当時の知事、ヨハン・シギスムンド・ハシウスは、彼を4ヶ月間投獄した ジーゲンバルグは、トランケバルの住民の言語を可能な限り学び、教師を雇ってポルトガル語とタミル語を学び、ヒンドゥー教の経典を購入した。彼は、キリスト教への改宗者数名と共同で、布教に利用できる地域社会の弱点を見出した。彼は最終的に最初のタミル語の用語集、タミル語=ドイツ語辞書、ヒンドゥー教の本の翻訳などをなした。聖書もタミル語に翻訳している。投獄中に新約聖書を完成させ、後に旧約聖書にも取り組んだ(死後に完成)。ヨーロッパから資金を得て印刷所を作り、タミル語の聖書と本を印刷した。インドで最初の本の印刷業者兼製紙業者になった。1719年にトランケバルで亡くなる前に、トランケバルにインド人司祭を養成するための神学校を設立した この活動は、トランケバルの支配者からの反対にもかかわらず、植民地の外に宣教師が出て行く契機となった 1729年–デンマーク=ノルウェー国王は、デンマーク東インド会社への追加融資を求められた。王の拒否とインド貿易の不調により、会社は清算を余儀なくされた
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