伊藤博文との再会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)
帰国後の1883年6月から6週間、瓜生繁子の口利きにより海岸女学校(青山学院の源流)で夏季休業中の英語教師として働く。 同年11月3日、外務卿井上馨の邸で開かれた天長節祝賀パーティに出席した梅子は、岩倉使節団で同行して以来初めて伊藤博文と再会する。11月26日、梅子は伊藤夫妻と共に、華族子女を対象とする私塾・桃夭女塾(桃夭女学校とも)を主宰していた下田歌子を訪問し、「梅子が下田に英語を教えること」、「下田が梅子に日本語を教えること」、「梅子が伊藤の妻と娘に英語や西洋式マナーを教えること」などが取り決められた。同年12月8日、伊藤邸での最初のレッスンを行った際、伊藤から客分として住込みの家庭教師を提案され、梅子は父親との相談の上で伊藤の提案を承諾、同年12月20日頃に伊藤邸へ引っ越した。 伊藤家の客分となった梅子は、下田と英語・日本語を教え合い、伊藤家の家庭教師兼通訳として働き、伊藤の娘にはピアノの指導も行った。明治17年(1884年)3月1日からは、梅子は桃夭女塾に英語教師として出講した。伊藤は、自邸に滞在する梅子に様々なことについて意見を求め、討論した。 梅子は、母の初子が病気になったため、同年6月末、半年間の家庭教師生活を終え、自宅に戻った。梅子は、伊藤による様々な便宜や、政府高官である伊藤が対等に接してくれたことを深く徳とし、後年まで伊藤と伊藤家に対して厚誼を欠かさなかった。
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