伊藤博文の交通事故と第4議会召集
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「第2次伊藤内閣」および「第4回帝国議会」も参照 この問題は、翌1892年(明治25年)11月25日に第2次伊藤内閣下で召集された第4回帝国議会にも引き継がれた。ところが、このとき各党の内部では複雑な動きが起きつつあった。 まず、11月6日に吏党系議員のうち、藩閥政府の政策に失望していた議員が同盟倶楽部を旗揚げして「民党宣言」をした。このため、第2回衆議院議員総選挙以来続いてきた吏党による衆議院の優勢が崩壊して民党が再び半数近くを占めた。そして、11月15日に自由党大会が開かれた。党の事実上の最高指導者である板垣退助は、自由党を「責任政党」と位置付けて従来の反対一辺倒の姿勢を修正し、国民生活と教育、外交、国防については、政府に協力する用意があることを表明する一方で、海軍増強(新艦建造)については政府が海軍における軍政と軍令の分離や行政の簡素化などの行政整理(行政改革)を行わない限りは賛成できないと表明した(逆に言えば、政府がこれらの改革を推進するならば、自由党は海軍増強を支持することも可能になる)。 一方、11月20日には吏党系議員が西郷従道元海軍大臣を会頭(党首)・品川弥二郎元内務大臣を副会頭に迎えて国民協会を正式に発足させた。国民協会結成に尽力したのは、九州出身の国粋主義者と第2回衆議院議員総選挙で当選した新人議員が多く、彼らは前内閣の第2次松方内閣を支持し、その継続を望む勢力であった。一方、長州藩出身で松方後継の伊藤博文に強い反感を抱いていた。 11月21日には立憲改進党幹部の島田三郎が先の板垣発言を非難して、同党の尾崎行雄もこれに同調した事から自由党と改進党の間で対立が生じた。これは、同盟倶楽部の仲裁で和解が成立した。 ところが、開院直後の11月27日の午後2時15分頃、首相官邸から私邸に戻ろうとしていた伊藤が乗っていた人力車が官邸正門から外に出ようとしたところ、折りしも走行中であった小松宮御息所が乗車した馬車と接触し、人力車の運転手が慌てて回避したものの車は横転し、転落した伊藤が重傷(後頭部打撲、額を負傷、前歯数本を折る)を負ったために全治2ヶ月と診断され、翌日に井上馨内務大臣が首相臨時代理を務めることになった。
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