伊藤博文の暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:46 UTC 版)
1909年 (明治42年)10月26日、日本の枢密院議長伊藤博文はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと日露関係の調整をするために渡航し、ロシア帝国が清から租借地としていたハルビン駅で朝鮮民族主義者の安重根に暗殺された。この事件の影響により、欧米列強の中で韓国への支援を継続していた最後の国であるロシアは、ロシア領内で発生した暗殺事件に関与したとの疑念を払拭するため、韓国の関係を断絶して日本との協調路線に転じた。日本国内においても、伊藤は征韓論政変以来の国際協調派の元老として、山県有朋らの軍閥による軍事拡張を抑えていた重鎮であり、伊藤の死亡により軍閥の発言力は増した。特に朝鮮半島の統治では韓国統監を伊藤博文・曾禰荒助と文官が務めてたのが、寺内正毅以降は朝鮮総督も含めていずれも武官が就任しするように改められ、武断政治が行われるようになった。
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