伊藤博文との関係
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伊藤博文は徳大寺実則宛ての書簡で井上を「忠実無二の者」と評し、宮中保守派との対決のために自ら宮内卿を兼ねた際にも自分の側近から井上だけを図書頭として宮内省入りさせるなど(明治17年8月)能力を高く買い信頼もしていた。だが一方で自分の信念に忠実な余り過激な振る舞いに出ることがあり、明治十四年の政変の際には井上が勝手に岩倉に対してドイツ式の国家建設を説いて、これを政府の方針として決定させようとした事を知った伊藤は井上に向かって「書記官輩之関係不可然」と罵倒(明治14年7月5日付岩倉具視宛井上書簡)している。 また後年、井上馨の条約改正案に反対していた井上がボアソナードによる反対意見書を各方面の反対派に伝えて条約改正反対運動を煽ったために第1次伊藤内閣そのものが危機に晒されるなど、伊藤は井上によるスタンドプレーに悩まされることもあった。 議会対策と政治制度では伊藤と井上の方針に違いが見られ、憲法に行政権統一と連帯責任を与える内閣を明記しようとした伊藤に、井上は天皇大権の侵犯の可能性を挙げて撤回させ、天皇に対する国務大臣の単独輔弼で首相の弱い権限が規定された。また、民党が議会で単なる政府反対だけの活動に終始しているとみた井上は議会を否定的に捉え、解散の強行か天皇の仲裁による大規模な行政改革を主張して自由党の妥協や政党政治に反対していたが、伊藤の方は時が経つにつれ内閣と政党それぞれが政治に慣れるに従い、互いに歩み寄りの姿勢で進展が見られると考え、内閣の連帯責任も時間経過で必要とする制度が作られるだろうと述べ、漸進的に政党政治を着実に浸透させることを考え、自由党との妥協や立憲政友会の創立にこぎつける。こうした伊藤の主義に納得出来ない井上は晩年に「自分は伊藤のために一生を誤られた」と言ったとされるが、文相辞任後も伊藤への手紙送付は欠かさず、病状の悪化で書けなくなるまで文通は続けられた(最後の手紙は伊藤に宛てた明治27年11月19日付の手紙)。
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伊藤博文との関係
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伊藤博文との関係は複雑であった。時には政敵となり、時には連携しているが、基本的に大隈は伊藤を高く評価している。明治30年(1897年)、大隈は大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には当時、伊藤が本邸を構えていた。さまざまな政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で引き払われた。大隈と同郷で、彼に目をかけられた行政法学者・織田萬のエッセイ集によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈は流石にえらかった、永世不朽の育英の大事業に眼を着けたことには、この伊藤はたゞ頭を下げる外はない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と羨みつつも悲しみ、大泣きに泣いたとのことである。
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伊藤博文との関係
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山縣と同じく長州閥出身で大勲位となった伊藤博文と対比され、伊藤が政党・議会を高く評価する一方で、否定的な山縣との思想は全く異なっていたが、当人たちの仲は非常に良好で、お互いのよき相談役であった。日清戦争後、司令官から退いた山縣に対し伊藤は詩を贈り、また山縣も返礼の詩を贈っている。伊藤の死を伝えた松井広吉は「山縣公にお目にかかった時、公は藤公の訃報を聞いて暗然としながら、伊藤は幸いに死所を得た。私なども畳の上で往生したくはないと心がけておるがと語られた」と回想している。また「かたりあひて尽し丶人は先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」と弔歌を詠んでいる。後に山縣は伊藤を「考慮万端少しも落ちのない方」であり、「思慮に余って決断が遅い」面はあるものの「全体としては真に国家有用の人物」であると評している。
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