山川捨松と永井繁子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)
詳細は「大山捨松」および「瓜生繁子」を参照 山川捨松は、帰国前には日本に女子のための学校を設立する希望を持ち、就職先が見つからない中で、女子に英語を教える私塾を独力で設立する計画を立てたが実現には至らなかった。また、文部省より東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)への奉職を打診されたが、日本語能力が乏しい為に辞退せざるを得なかった。明治16年(1883年)11月、捨松は政府高官(陸軍中将・参議・陸軍卿)で18歳年上の大山巌と結婚し、政府高官夫人の立場で留学で得た学識を生かす道を選んだ。 一方、ヴァッサー大学音楽科でピアノを専攻した永井繁子は、西洋音楽とピアノの専門知識及び技能を有する唯一の日本人であり、日本語能力が乏しくてもピアノの演奏と教授は可能であることから、帰国の4か月後、明治15年(1882年)3月2日付で文部省直轄の音楽取調掛(後の東京音楽学校、現・東京芸術大学音楽学部)の教師に採用され、日本最初のピアニストとして活躍した。繁子は、明治15年(1882年)12月に、アメリカで出会った瓜生外吉(海軍大尉)と恋愛結婚したが、その後も教師としてのキャリアを継続した。
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