山川家
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山川浩(やまかわ ひろし) (山川与七郎 → 山川大蔵 → 山川浩) 演:玉山鉄二(幼少期:里村洋) 山川家の長男。幼名は与七郎(よしちろう)、長じてからは大蔵(おおくら)を称する。 八重とは幼馴染で、密かに想いを寄せていた。父親を早くに亡くし、若くして山川家の当主となる。京都へ上り、容保の側近として活躍して奏者番に昇進。さらに幕府の外国奉行の供として欧州を回り見聞を広めて帰国する。 鳥羽・伏見の戦いでは洋装して前線で指揮を執り、瀕死の重傷を負った三郎の最期を看取った。会津戦争では日光口の守備を任され、板垣退助率いる新政府軍の進軍を阻み、その後は佐川官兵衛と共に家老に進んだ。新政府軍に包囲されている鶴ヶ城に帰城する際、行軍の列の先頭に彼岸獅子を立てる奇策で入城に成功する。会津戦争後は、他の藩士と共に猪苗代の謹慎所送りとなる。 戊辰戦争後は容保の助命嘆願や家名再興に力を尽くし、家名再興が許されると斗南藩の大参事に就任するが、藩は財政難に苦しめられ、藩のために行動した尚之助の裁判でも、苦渋の決断で藩の関与を一切否定した。 廃藩置県後、陸軍に仕官して佐賀の乱の鎮圧にあたり、その際の負傷で左腕が不自由となる。西南戦争にも出征し、西郷軍に囲まれた熊本城に入城するという功績を挙げた。一方で自宅に多くの会津出身者を書生として抱え、彼らの育成に心を砕く。また容保から孝明天皇の「御宸翰と御製」を託され、会津の雪冤を目指して『京都守護職始末』の編纂に着手するが、完成を健次郎に託し息を引き取った。 山川二葉(やまかわ ふたば) (山川二葉 → 梶原二葉 → 山川二葉) 演:市川実日子(幼少期:愛川あおい) 浩の姉。 梶原平馬に嫁ぎ、夫に従って京都に滞在し、一子・寅千代を儲ける。会津藩が京都を撤退すると、江戸を経て会津に帰国する。 戊辰戦争後、平馬と離縁し家族とともに東京に住まいを移した。多くの書生を抱え、火の車の山川家の家計を遣り繰りしている。 山川健次郎(やまかわ けんじろう) 演:勝地涼 浩の弟。 学問には秀でていたが、砲術等や武芸は不得手で「青瓢箪」と呼ばれていた。 会津戦争に八重が率いる鉄砲隊のひとりとして参加し、八重を補佐して籠城戦を戦い抜いた。 戊辰戦争後は猪苗代の謹慎所に送られるが、梶原平馬の計らいにより、アメリカに留学。イェール大学で物理を学び、帰国後は東京開成学校(後の東京帝国大学)に採用され、教授となる。科学者として同志社のハリス理化学館の建設にも関わった。 浩から『京都守護職始末』の完成を託され、刊行寸前まで漕ぎ着けることができたが、日露開戦を前に国内の混乱を恐れた政府の意を受けた大山巌の説得に折れて刊行を思い止まるが、「永久に封印はしない」と釘を刺した。 大山捨松(おおやま すてまつ) (山川咲 → 山川捨松 → 大山捨松) 演:水原希子(乳児期:大谷美玲 / 幼少期:ほの花 / 少女期:愛川あおい) 浩の末妹。幼名は咲(さき)。 戊辰戦争後、留学生として渡米する際に捨松と改名。 長年の海外生活で、すっかり西洋風の女性となって帰国するが、日本では活躍の場が与えられなかった。大山巌に見初められ求婚されるが、仇敵・薩摩出身者との縁組は周辺から反対され、捨松も乗り気ではなかった。しかし、「会津人も薩摩人も海外に出れば、同じ日本人」だという大山に惹かれ、自分の意思で大山との結婚を選ぶ。結婚後は、社交界デビューを果たし「鹿鳴館の華」と謳われるようになる。その後、篤志看護婦人会を立ち上げる。 山川艶(やまかわ えん) 演:秋吉久美子 浩らの母。 山川兵衛(やまかわ ひょうえ) 演:山本圭 大蔵(浩)たちの祖父。 家老として会津松平家に仕え、浩(大蔵)の成人後は隠居していたが、会津戦争では家族と共に鶴ヶ城に篭城した。 維新後の明治3年に米沢の八重を訪れた浩の口から前年に亡くなったことが語られている。 山川登勢(やまかわ とせ) (北原登勢 → 山川登勢) 演:白羽ゆり 大蔵の妻。会津藩士・北原匡の娘。 鶴ヶ城籠城戦で焼き玉抑えに失敗し、命を落とした。 山川美和(やまかわ みわ) 演:守田菜生(少女期:澤田汐音 / 幼少期:酒井彩音) 浩の次妹。 山川操(やまかわ みさお) 演:竹島由夏(幼少期:川島鈴遥) 浩の三妹。 山川常盤(やまかわ ときわ) 演:佐藤みゆき(少女期:永野芽郁 / 幼少期:信太真妃) 浩の四妹。 山川重晴(やまかわ しげはる) 演:佐伯元希 常磐の息子。
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