世良田亮とは? わかりやすく解説

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世良田亮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 11:14 UTC 版)

世良田 亮(せらた たすく[1]、安政3年10月3日[1]1856年10月31日[2]〉- 明治33年〈1900年8月1日[1])は、日本海軍軍人アナポリス海軍兵学校 1881年次卒業。最終階級は海軍少将

海軍省主事[注釈 1]、海軍省軍務局軍事課長[注釈 2]戦艦富士」艦長[注釈 3]、戦艦「三笠」回航委員長などの要職を歴任したが、現役の海軍少将のまま、満43歳の若さで病死した。

生涯

※ 本節の出典は、特記ない限り、秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮。

信濃国上田藩の上田城下に出生[3]。父は、上田藩士で弓術師範[3]を務めた山本義隆[4]幼名は山本源之丞で、廃藩の際に本姓に復し、世良田亮と名乗った。

世良田は神童の評判が高く、9歳の時から上田藩の藩校に学んだ[3]

明治5年9月、海軍兵学寮に入校。明治7年、台湾出兵に参戦[3]。明治8年6月、アメリカへの留学を命じられて渡米。

明治10年9月、アナポリス海軍兵学校に入校。世良田はアナポリスで好成績を修め、砲術科主任教官を務めていたアルフレッド・セイヤー・マハンから恩顧を受けた[5]。明治14年6月、同校を卒業(1881年次卒業)。卒業席次は14位/72名であった[5]

明治14年8月に帰国し、明治14年9月17日に大日本帝国海軍の海軍中尉に任官し[1][6][注釈 4]東海鎮守府附。明治15年3月、「扶桑」乗組。

明治15年8月、海軍大尉に進級。明治15年12月、中艦隊司令官附。明治16年9月、海軍省軍務局。明治17年2月、海軍省軍事部。明治19年3月、参謀本部[7]海軍部第3局第2課長。明治20年5月、清国公使館附武官。

明治20年10月、海軍少佐に進級。明治23年8月、帰朝。明治23年8月、海軍参謀部出仕。明治24年6月、「葛城」副長。明治25年8月、「満珠」艦長。明治26年5月、「天龍」艦長。

明治26年12月、海軍大佐に進級[注釈 5]。明治27年、日清戦争に参戦[3][注釈 6]。明治28年2月の威海衛の戦いでは、清国の戦艦「鎮遠」を鹵獲する等の武功を挙げた[3]。明治28年7月、「大和」艦長。明治28年9月、「金剛」艦長。明治29年11月、海軍省主事[注釈 1]。明治31年4月、兼 海軍省軍務局軍事課長[注釈 2]。明治31年12月、海軍省軍務局軍事課長(専任)。明治32年6月、戦艦富士」艦長[注釈 3]。明治33年5月、戦艦「三笠」回航委員長。

明治33年5月、海軍少将に進級[注釈 7]すると同時に呉鎮守府艦隊司令官。明治33年6月、佐世保鎮守府参謀長。明治33年7月、病により[3]待命。明治33年8月1日、現役の海軍少将のまま病により[3]死去(満43歳没)。墓所は青山霊園

人物像

武人たる神学者

瓜生外吉男爵、海軍大将)は、「明治8年のアメリカ留学」「明治10年のアナポリス海軍兵学校入校」「明治14年の同校卒業」の同期生にして親友[13]。二人とも敬虔なクリスチャン(長老派教会)であった[13][14]

世良田は「武人たる神学者」と呼ばれたほどの篤い信仰と学識を持ち、日本基督教会伝道局長を務めた[13]

「日本最初の女子留学生」との縁

日本最初の女子留学生として知られる、大山捨松(旧姓:山川)・瓜生繁子(旧姓:永井)・津田梅子の3人とは、アメリカ留学時代に知り合っていた[15][16](瓜生外吉と永井繁子は、アメリカで恋仲となり、帰国後に結婚して相思相愛の夫婦となった。詳細は「瓜生繁子」を参照)

世良田がアナポリスを卒業して帰国した後の明治16年に、世良田と津田梅子との縁談が持ち上がったが、実らなかった[13][15][17]

信仰を共にした、妻・世良田能布

明治20年(1887年)4月20日、世良田は、菅野能布(「菅野のぶ」とも表記[18])との結婚願を海軍大臣に提出している[19]

世良田の妻となった能布は、士族 菅野善政(明治維新後は宮内省官吏、敬虔なクリスチャン[20])の娘で、慶応3年2月16日〈1867年3月21日[2]〉生[19]

能布は、女子学院(現:女子学院中学校・高等学校)に学び、アメリカに留学した人[18]。そして父や夫(世良田)と同様に敬虔なクリスチャンであり、世良田との間に5男1女を儲け、明治33年(1900年)に世良田が死去した後は亡夫の故郷である上田に住み、同地の教会に通いつつ子供を育て上げた(大正10年〈1921年〉現在)[20]

瓜生外吉の弔辞

世良田が満43歳の若さで病死した際、葬儀において瓜生外吉は

「氏が海軍中に頭角を表はし、今東洋の風雲穏かならざるの時に方つて此の良将を失ふ云々」[3]

と弔辞を述べた[3]

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

脚注

注釈

  1. ^ a b 山本権兵衛が務めたことで知られる海軍省主事は、明治32年以降の海軍省先任副官[9]。概ね、現在の日本の中央省庁における大臣(長官)官房長に相当する[10]
  2. ^ a b 明治31年当時の海軍省軍務局軍事課長は、後の海軍省軍務局第1課長に相当する海軍軍政部門の要職[11]。世良田の前任者は出羽重遠(後に海軍大将)、後任者は加藤友三郎(後に元帥海軍大将)である[11]
  3. ^ a b 世良田が明治32年に艦長を務めた戦艦「富士」は、当時の帝国海軍の最新鋭艦にして最強艦。
  4. ^ 世良田と同じく明治14年6月にアナポリス海軍兵学校を卒業した瓜生外吉は、世良田に2か月遅れる明治14年11月2日に大日本帝国海軍の海軍中尉に任官し、世良田より後任となった[6]
  5. ^ 帝国海軍では、明治19年から明治30年まで、中尉と中佐の2つの階級を廃止し、士官の階級は「少尉→大尉→少佐→大佐→少将→中将→大将」となっていた[8]
  6. ^ 出典には「『葛城』艦長として日清戦争に参戦して武功を挙げた」という趣旨が記載されている[3]
  7. ^ 世良田の海軍少将への進級(明治33年5月)は、アナポリス同期の瓜生外吉と同時であった[1][12]

出典

  1. ^ a b c d e 秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮
  2. ^ a b Keisan(カシオ計算機)で換算。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『上田市史・下巻』(1940年):社寺古墳及人物志/人物編:世良田亮
  4. ^ 世良田伝来の「重籐弓」が東京国立博物館に所蔵されている
  5. ^ a b 谷光太郎 (1993). “主要提督から見た米海軍戦史(第9回):シムズ提督と大鑑巨砲時代”. 波濤 1993年9月号 (兵術同好会): 13-25. 
  6. ^ a b 明治二十二年六月八日調 海軍高等武官名簿』(国立公文書館公式サイトで公開)内閣、1889年、6頁https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A09054407400 
  7. ^ 明治19年3月時点の参謀本部は、帝国陸軍帝国海軍の合同機関であった(→参謀本部_(日本)#沿革)。
  8. ^ 熊谷 2007, p. 56
  9. ^ 秦 2005, pp. 434–435, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-IV 海軍-1.海軍省-A. 本省 / 官房主事、海軍省(先任)副官
  10. ^ 千早正隆『海軍経営者 山本権兵衛』光人社、1986年、42頁。 
  11. ^ a b 秦 2005, p. 438, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-IV 海軍-1 海軍省-A 本省-軍務局第1課長(軍事課長)
  12. ^ 秦 2005, p. 188, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:瓜生外吉
  13. ^ a b c d 生田 2017, 第4章 文部省音楽取調掛:海軍中尉瓜生外吉との結婚
  14. ^ 生田 2017, 第2章 アボット・スクール時代:海軍士官・瓜生外吉との恋
  15. ^ a b 亀田 2005, pp. 55–60, 第2章 ジョージタウンでの生活-ランマン夫妻とともに:6 梅子とモリス夫人との出会い
  16. ^ 生田 2017, 第3章 ヴァッサー・カレッジ時代:卒業-ショパンを弾く
  17. ^ 飯野 2000, pp. 81–82, 第4章 瓜生繁子-青春を共有した友として(亀田帛子):2 帰国後:瓜生家-若者たちのサロン
  18. ^ a b 小檜山 2020, p. 72
  19. ^ a b 海軍大尉 世良田亮 結婚願(明治20年4月20日)」 アジア歴史資料センター Ref.C06090854800 
  20. ^ a b 警醒社書店、1921年、239頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/963340/1/135。 
  21. ^ 『官報』第1921号「叙任及辞令」1889年11月21日。
  22. ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
  23. ^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1896年2月12日。
  24. ^ 『官報』第5125号「叙任及辞令」1900年8月2日。
  25. ^ 『官報』第3273号「叙任及辞令」1894年5月30日。
  26. ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日
  27. ^ 『官報』第3879号「叙任及辞令」1896年6月5日。
  28. ^ 『官報』第3816号「叙任及辞令」1896年3月23日。

参考文献




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